視線の先、ここから少し離れた場所を通り過ぎる大地色の髪を見届けたその習慣に違和感を感じて。
その紫暗が僅かに細められた。
荷物持ち係として、それが当然の事であるかのように有無を言わさず悟浄の手を強引に引きつつ。
つい先程街へ買出しに出た八戒に手渡された地図など、頭の片隅にも入って来てはいない。
明日の朝一にこの宿を出発し、時間の無駄を最小限に抑えながら西へ進む為の今夜のルート会議。
その準備の為に「地図に目を通しておいて下さい」と一言言い残して八戒は4人同室の部屋を後にした。
しかし。
こうちらちらと何度も目の前を行き交われては。
目の前の地図に集中しろという方が無理な話で。















『紅い紐』

















しばらくは無視を決め込んでいた三蔵もいい加減にしろと呟く代わりに吐き出された溜息とともに低い声音でそれは告げられた。
「どうした、それは」
主語のすとんと抜け落ちた、必要最低限の短い言葉にもやはりそこは悟空の事。
三蔵が何を言わんとしているのかは瞬時に読み取ったらしい。
「ああ、これ?」
自分の髪を指差してこちらも必要最低限の返事を返して来る。
最近悟空の後ろ髪が肩に掛かるまでに伸びて来て、かなり本人も鬱陶しく感じていたであろう事には三蔵自身にも自覚があったのだ。
そろそろ自分が切ってやらなくてはいけないか、と。
思っていた矢先にそれがなくなっているように感じられて思わず尋ねたのが先程の短い台詞。
「切ってないよ。ちゃんとあるよ」
ひょい、と踵を返して三蔵に背を向けて、「ほらね」と囁いたその後姿には。
可愛らしい紅い紐で括られ、小さく纏められた悟空の髪があった。
これを誰が施したのかは本人に聞かずとも想像が付く。
紅い紐の先端はこれもまた紅いビーズで作られた可憐な花で装飾されており、それが悟空の愛らしさをまた数段引き立てていた。
こんなセンスのいい洒落たものを悟空に与える事の出来る者など、そしてそのまだ結い上げるのには短過ぎる髪を綺麗に纏め上げる事が出来る器用な者も、一人しかいない。
三蔵の眉間の皺が、僅かに増えた。
目の前の男の微妙な表情変化すら、敏感に察知するのは悟空の得意技。
「あれ?・・・・もしかして、怒ってる?」
首を傾げながら自分の紫暗にそう語り掛けて来る黄金色に。
何だか無償に腹が立った。
「おまえが誰かに物貰った位でいちいち怒る訳ねぇだろうが」
本心を言えば、それすらも気に食わなかったけれど。
それは言葉にするのは憚られたから、心とは裏腹にそう言い返してやれば。
しばらく間を置いてから小さくくすくすと笑うその声にまた腹が立つ。
何笑ってやがる、そう言いながらハリセンでも取り出して頭の上に振り下ろしその笑いを収めてやろうとした矢先に悟空に先に囁かれた。
「違うよ、その事じゃなくて」
そこまで告げた後で。
すっと笑いを収めて自分を真っ直ぐに捉えて来る黄金色から視線が外せなくなった。
「他の人に髪触らせちゃった事。―――そういうの、凄く嫌うでしょ」

・・・・何でもお見通しか。

図星とも取れる悟空の言葉に何も言い返せなくなる。
他の男に触れさせるなど許せるものではなかったし。
触れるどころかその笑顔さえ見せたくはないとさえ思う。
こんな了見の狭い事を自分が考えるている事実を、目の前の存在には知られたくなくて。
八戒や悟浄がその頭をくしゃくしゃと撫で付けても。
愛らしい笑顔を二人に振りまいていたとしても。
表情など微塵も変えずに振舞って来たけれど。
そろそろそれも限界だったらしい。
事実、悟空には自分の想いなどとうに見抜かれていた事は、先程の台詞で確認済みで。
「ごめんね。もう触れさせたりしない・・・」
愛らしい声で耳元で囁かれる。
かさっと地図の畳まれる音が静かな室内に響いて。
三蔵の手が悟空の肩にそっと触れた。


「もうすぐ帰って来るよ。こんなとこ見られたらどうすんの」
咎めるように悟空が告げて来る。
買出しに出たとは言っても、そのメモの内容は煙草と缶ビールと新聞のみ。
今夜の食事は宿の食堂で用意して貰えるし、昨夜のうちに野宿に備えての買出しはほとんど済んでしまっているから、二人の帰宅はそう遅くはならない筈だ。
―――それなのに。
目の前の男は自分を組み伏せたままでその体勢を崩そうとはしない。
全く何考えてるんだよ、と組み伏せられている格好の悟空としてはこの状況を好ましくないと考えるのは至極当然で。
しかし組み伏せている方としてはそれはそれで言い分があるようで。
「おまえが悪い」
端的に告げられては。
「何で」
こちらもやはり端的に言葉が返って来た。
それを受け止めてから、サイドテーブルに放り投げられた地図を視線で指して。
「人がアレ見ながらルート決めしようとしてる最中に如何にも構って欲しそうに何度もうろうろしてただろうが」

・・・・こちらもやはりお見通しで。
『どうした、それは』
溜息混じりに告げられたその台詞を、実は心の奥底でどんなに自分が待ち焦がれていた事か。
そんなふうに考えている自分を悟られるのはやはり抵抗があって。
なるべく表情には出さないように心掛けてはいたけれど。
その行動には無意識に自分の思いが表れてしまっていたようで。
当然、こちらも限界だったようだ。
自分の思惑など全て見通されていると思わせるのに十分過ぎる先程の台詞に。
悟空の愛らしい口元から思わず溜息が漏れる。
「・・・大体そんな色っぽいモン見せ付けてんじゃねぇよ」
突然掛けられた言葉には。
何の事だか分からなくて一瞬返事を返すのが遅れた。
呆けた顔で見つめ返して来るその瞳に思わず失笑がついて出る。
髪を結った事により露わになった、白く細い首筋に。
並々ならぬ色艶を感じ取っていたと言ってやったら目の前のこの存在は。
どんな反応を示すのだろう。
そのおかげで地図など視線を泳がせているだけで頭の中に全くと言っていい程残っていないのだと言ってやったら―――。
「髪・・・・、崩れちゃうじゃん。せっかく結ってもらったのに」
頬を紅く染め、またその肌に色艶を乗せつつ悟空が呟き掛ける。
そんな悟空の愛らしい表情を見届けて、気を良くした後で。
「責任取りゃいいんだろうが」
口角を僅かに上げる彼らしい笑みを浮かべ。

「後で俺がもっと綺麗に結ってやる」

―――その愛しい声で囁かれては。
ささやかな抵抗なんて、無意味だろうか。
悟空は心底、そう思う。
















ドアを叩こうとして、八戒のその手が止まる。
普段なら賑やかに聞こえて来る筈の悟空のかん高い声が聞こえて来ない。
代わりに聞こえて来るのは、三蔵の常なら滅多に聞かれないような甘く優しい声音。
その内容までは聞き取る事は不可能だが。
多分にそれは甘い蜜月のような会話である事は容易に想像が付いた。
この状態でドアを開けたらその後の三蔵の態度が露骨に不機嫌度を増していくであろう事は目に見えていて。
第一、明日の命の保障もないようなこの道中の。
束の間の恋人同士の大切な甘い一時を邪魔するような無粋な男では八戒はなかったから。
「・・・どうします?」
八戒の背後で荷物の入った紙袋を持った状態で立ち竦む悟浄に指示を仰ぐように振り返れば。
こうなる事は予想済みだったと言わんばかりに小さな溜息を付きつつ。
「どうするっつったって、入れねーだろ」
言われてしまえば八戒の顔にも苦笑が浮かんだ。
先程、露天商で見つけて買って来たばかりのカードを八戒が袋の中から取り出して、それを悟浄の目の前に差し出して。
「そうですよね・・・カードでもしますか?」
「そうすっか。ったく、だから4人部屋はよせって言ったじゃねーか・・・」
今度は深い溜息を付いて悟浄が呟くのに。
八戒もそれに同意するように軽く頷いた。
宿に到着した際、一つの部屋しか空きがなかったから仕方なく4人部屋にしたわけではなく。
2人部屋だって空きがあったのに三蔵が珍しく4人一緒でいいと宿主に申し出たのである。
三蔵曰く「経費節減」。
しかし実際のところはそれが理由ではなく。
ここのところ有難い事に運良く野宿が免れており、宿での連泊が続いていて。
そうなれば当然、個室4つが取れた時以外は三蔵と悟空が同室になる。
結果。
悟空に無理をさせる日々が続いたから。
八戒曰く「悟空休息の夜」。
なのではなかろうか、と踏んでいる。
部屋で悟空と2人っきりになってしまえば三蔵自身抑えが効くかどうか自信がなかった為の4人部屋なのではなかろうか、と。
あながち外れてはいないと思うのだか、このドアの向こうの様子ではやはり三蔵の抑えは効かなかったようで。
故意に気を使い2人を残し買出しに出たのが果たして良かったのか悪かったのか。
判断付きかねるところではあった。
そこまで考えたところで。
ふと、八戒が顔を上げた。
「そうだ。こんなところでカードするより」
にっこりと笑顔を浮かべて取り出したのは、買出しの際に常に八戒が三蔵から渡されている三仏神カード。
それをひらひらと手の中で泳がせて。
「飲みにでも行きません?」
その誘いに悟浄が狂喜したのは言うまでもなく。
「おっ、いいねぇ」
こんなところでカードに勤しんでいてもいつ部屋に入れる状況になるか分からないから。
底冷えのする廊下に座り込んでゲームに打ち込むよりも、街の酒場で身体を温める事を選んだようだ。
「じゃ、早速行きますか」
八戒の肩にさり気なく手を回して来た悟浄の手を受け止めて。
2人は夜の賑やかな繁華街へとその姿を消した。






「おい、八戒」
清清しくも空気の凛と張り詰めた、次の日の朝。
予想通り、その低い声が八戒の背後から不機嫌に響いて来る。
「何ですか」
聞かなくても、三蔵の言わんとする事はすでにお見通し。
けれど一応尋ねてみた。
「何だ、この領収書は」
言いつつ、八戒の目の前にちらつかせたもの。
昨夜豪遊した酒場の代金の書かれた、領収書。
その紫暗に多大な怒りを滲ませて睨まれたとしても。
今朝の八戒には切り札がある。
「だって、昨夜買出しから帰って来たら部屋に入れなかったんですよ。仕方ないじゃないですか」
その台詞を後押しするように加勢したのは悟浄だ。
「そうそう。あんな底冷えする廊下で一晩中待たされたら誰だって風邪引くでしょ」

・・・・・一晩中なんかしてねぇよ。

そう思いつつも。
これ以上反論しようものなら何だか自分が墓穴を掘った発言を返してしまいそうだったから。
「てめぇ、いつまでも寝てんじゃねぇ」
とその矛先は側のベッドですやすやと寝息を立てていた悟空に向けられる事となり。
「あ・・・?」
頭にハリセンを落とされて寝ぼけ眼を強引に開けさせられた悟空こそが。
一番の被害者かも知れなかった。
結局昨夜。
かなり遅くまで寝かせて貰えなかった上にこんな起こされ方をされたのでは溜まらないだろう。
本来なら悟空にとって休息に充てられた筈の4人部屋であったのに、それが誰の所為で叶わなかったのかは。
本人が一番に自覚のある事だろうから、あえて名前は出さずにおこう。