「おい、悟空」
それは、常に聞く声よりも幾分か訝しげな、少しくぐもった声だった。
悟空からは多少離れた位置に存在するソファに腰掛け、傍らのサイドテーブルに置かれたコーヒーカップを時々手にしつつ、ゆったりと新聞読んでいた三蔵に名を呼ばれるまで、呼ばれた当の本人の意識は何処か遠くに飛んでいたように思う。
へっ、と短く返した返事と、背後の三蔵を振り返った瞬間の悟空の表情は多分にどちらも間抜けなものだったと思われる。己の表情をちらりと見遣った直後に軽く溜息を付く三蔵の様子を見ればそれはおのずとして悟空にも分かるものだった。
「水。溢れてんぞ」
先程の声と変わらぬ訝しげな声でそう言われて初めて手元に視線を落せば、水換えを施していた小型水槽の中の水がすでに許容量を越え溢れて床に零れている現実に突き当たった。
「うわっ、やばっ・・・・!」
悟空が手元に持っていたバケツから水槽へと水を送り込んでいたポンプを急ぎ取り出して水が入り込むのを防いだが、時すでに遅過ぎたようだ。
相当に床は濡れてしまっている。
水槽の水換えをするとなれば多少は水が零れて水槽の周囲を濡らす事になるだろうと予想して、あらかじめ用意しておいた雑巾を手にしそれを拭き始めたが、すぐに雑巾は水を多量に吸い込み用を足せなくなってしまう。
―――自分は今、動揺している。それも、相当に。
今更のように自覚しつつ、今度は悟空が軽く溜息を付いた。
急いで洗面所に行き雑巾を一度絞った後でリビングに戻り再度床を吹き始め、ただひたすらそこを綺麗にする事に集中しようと務めながらも、自分にこれ程の動揺を余技なくさせている例の電話の会話をまた思い出している自分が居る事に気付かされてしまう。
悟空にしては珍しく思い詰めたような表情がその愛らしい顔に浮かび上がり、そしてその直後。
「・・・・もう、どうしたらいいか、分かんねぇ・・・・」
再度付かれた溜息とほとんど同時に呟かれた、悟空のか細い声。
それは常日頃元気である事だけが取り得だと始終悟浄にからかわれている悟空らしからぬ気弱な声だ。
ソファに腰掛けていた三蔵には、その呟きが届いたのか、否か。
至ってポーカーフェイスを崩す事のない彼の表情からそれを読み取るのは、実に困難な事だった。
『再会』 1
事の始まりは、今朝朝一で掛かって来た一本の電話にある。
こんな朝早い時間に一体誰からだよ、と生あくびを噛み殺しつつ、起き抜け特有の重い身体を引きずって如何にも面倒臭そうに電話に出た悟空だったが、受話器の向こうから聞こえて来たその声を聞いた瞬間にいっぺんに覚醒させられた。
まるで人を威嚇するかのように低い癖に、己の耳に心地良く届いて来る、その声。
人を食ったような物言いなのに、悟空にとっては強い愛着さえ感じさせるのに十分な、その口調。
悟空が今現在共に暮らし、今だ隣のベッドで深い眠りに付いている男以外で、こんな声を持ちこんな話し方をする男を一人だけ。
―――悟空は知っていた。
受話器の向こうの相手が判明した瞬間に受話器を保留にし、ちらりと三蔵を見届けて確かに寝ている事を確認してから悟空は慌ててリビングへと駆け出していく。
昨夜会社からの帰宅が深夜に及んだ三蔵の身体を気遣い、彼を起こす事のないようにとわざわざリビングまで来て親機の受話器を取ったわけではない。
この受話器の向こうの相手が誰であるのか、三蔵に知られるのは非常にまずい、と悟空は瞬時にそう感じたから寝室からリビングへと移動しただけの話だ。
リビングに配置された電話台の上にある受話器を取り上げ悟空は急いでそれを耳に当てる。
途端に聞こえて来るのはやはり己にとっては心地良く伝わって来る低い声で。
けれど三蔵よりも幾分か優しい口調で話すから、やはりこの人は彼とは似て否なる存在なのだと改めて思い知らされる。
そしてそれは一分にも満たないのではないかと思われるような程の、挨拶と用件だけの短い会話だった。
ただ、会話の最後に受話器の向こうから落ち着いた口調で囁かれた一言に悟空は驚いて息を呑んだ。
『近いうちにそっちへ行く』
事も無げにさらっと言い切った相手のその台詞を耳にした瞬間の悟空の感想。
・・・・・―――誰が、誰の家に来るって?
正直、相手の言葉が瞬時に理解出来なかった程に。
その時、悟空は動揺した。
この電話の会話の内容を知る事となれば、普段から不機嫌な顔の同居人の機嫌が瞬時に悪化する事は目に見えていたし、この電話の主と顔を付き合わせ言葉を交わすなどという最悪の事態になったらそれはそれは恐ろしい罵詈雑言が飛びかいそうだし。
そして何より悟空自身がその間に挟まれて上手く取り成せる自信などある筈もなく。
これは何としてでも阻止しなければならない事態だと確信した悟空が必死に電話の相手に食い下がったのは当然の事と言える。
『ちょっと待ってよ、そんな、急に来るって言われても、こっちにも都合ってもんがあるしさ。それに今一緒に住んでる人、ちょっと気難しいんだ。きっと嫌な思いさせちゃうと思う、だから来ない方がいいって』
悟空が冷静さをすっかり失って早口でまくし立てるのにも電話の相手が怯む訳がある筈がないのだ。この受話器の向こうの存在も、己とともに暮らし今はまだ深い眠りに付いているあの存在も、悟空の台詞を一々殊勝に受け止めるような男達ではないのだから。
『安心しろ。渡したい物があるだけだ。それを渡したらすぐに帰る』
見事に自分の用件だけをすぱっと告げて、悟空に反論の余地を与えず電話は切れた。
見た目だけじゃなく、相手に有無を言わせずに押し切ってしまうこのあたりの性格は何処かの誰かさんとそっくりだよな、そんな事を思いつつも、冷静にそんな事を考えている場合じゃないと思い直して。
ツーツーと鳴り響く受話器に呆然と視線を漂わせながら、これは非常にまずい事態じゃなかろうか、と頭を抱えたのがつい数時間前の話だ。
「おい」
「へっ」
再び突然に掛けられた背後からの三蔵の声に驚かされて悟空の肩がぴくりと反応した。
今度は何だよと言いたげに悟空がゆっくりと振り返れば、呆れたような顔でこちらを見届ける紫暗と黄金色の瞳が交錯した。
「まだ薬入れてねぇだろ。殺すつもりか」
そう言われて、初めて気が付いた。
たった今水槽の中に悟空が入れようとしていたのは、水換えの間の避難所として小さなバケツの中に入れられていた熱帯魚。
その熱帯魚を水槽の中に落とす事なく慌てて下に下ろしてから、悟空はすぐ近くにある食器棚の引き出しから水道水のカルキを抜く薬を水槽に入れてゆっくりと水をかき回した。
これをしないまま水槽の中に熱帯魚を入れてしまえば、カルキにやられて熱帯魚は死んでしまう。
―――危うく殺すところだった。
このマンションはペットの飼育は一切禁じられていたけれど、昼間どうしたって一人になる事の多い悟空が、淋しいから何か生き物が飼いたい、と三蔵に無理を言い何とか口説き落とし買ってもらったのが今水槽の中に落とされた熱帯魚だ。熱帯魚はデリケートでちょっとでも手を抜けばすぐに死んでしまうと知っていたから、きっとそう長くは生きられないだろうと三蔵は鷹をくくっていた。しかし三蔵の予想はことごとく裏切られ、もう半年以上も元気にこの水槽の中を泳ぎ回っている。
常に水温は一定に保たなければいけなかったし、一匹でも病気に掛かればその魚だけを別の水槽に移し他の魚に転移しないように注意しなければならなかったし、水草はすぐ魚に食べられてしまうからまめに取り替えなくてはいけなかったし、水だって常に水温が高い所為でちょっと手を抜いて換えずにいるとすぐにアオコが大発生してしまう。
とにかく手間が掛かるのに悟空は文句一つ言わずにこまめに熱帯魚の世話を続けていた。
そのくらい大事に扱い世話をしていた悟空らしからぬこの態度。
一体何が、彼をここまで動揺させているのか。
何かある、と勘のいい三蔵が気付いてしまうのは仕方のない事だろう。
元々悟空はどんな事でも誤魔化すのが苦手なのだから。
特に三蔵に対して、それは顕著に現れる。
「・・・・・おまえ、何か隠してねぇか」
いきなり核心を付かれては、悟空としてもどんなリアクションをしたらいいのやら分からずに困惑してしまう。
とりあえず、元気に泳ぎ始めた熱帯魚の美しさに見惚れる振りをしつつも、この先の自分の取るべき行動について実は頭を悩ませていたりする。
ここまで探られているのだから、言うべきなのか。
言って楽になりたい気もするし。
・・・・・言ったら恐ろしい事になりそうな気もするし。
もし、これが逆の立場だったら。
三蔵に過去に婚約者が居たとして、その人がこの家に来ると知らされたら。
自分は素直に受け入れられるのか。
結論。
―――絶対、ヤダ。
そんな人を玄関に上げる事すら赦したくはない。
悟空がこんなふうに思うくらいだから、意外に独占欲の強い三蔵はもっと不快に思うんじゃないだろうか。
―――言えない、絶対無理。
そう結論付けた悟空は、白を切る事に専念し始めるのだ。
勿論、そんな事を試みたところで、白を切りとおせる自信など実は微塵も持ち合わせてはいなかったのだが。
如何せん、相手が悪過ぎる。
彼の方が悟空よりも一枚も二枚も上手だ。
「―――や、やだなぁ。俺が三蔵に隠し事する訳ないじゃん」
「ちゃんと俺の目見て言ってみろ」
「ちゃんと見てるって」
「目が泳いでんだよ」
さらっと言われたその後は、ちらりと紫暗がこちらを見遣り。
そしてその直後、新聞を折り畳みテーブルの上に投げ捨て、眼鏡すら外してソファからすっと立ち上がるのだ。
こっちへ来る、という悟空の予想は見事に当たる。
気が付けば三蔵の立ち位置は自分のすぐ隣。
また、確信犯。
くいっと、細い顎を片手で持ち上げられて。
甘く囁かれるのだ、その低音で。
「全部吐いちまった方が利口だと俺は思うがな」
自分が三蔵に隠し事など出来る器ではないのは良く自覚しているつもりだったけれど。
こうまであからさまに言われてしまうと、この先どう対処したらいいのか見当すら付かない。
このまま口付けでもされて一気に甘いムードに持っていかれてしまったら、それこそ相手の思うツボだ。多分に自分は三蔵に対し洗いざらい全てを話してしまうだろう。
作戦以外の何物でもないな、そう悟空は思う。
自分がムードに流され易い事を一番良く知っているのは、他でもない三蔵自身なのだから。
どうしたらいいのかと、悟空が困惑し切りに首を軽く振った、その瞬間。
耳元に飛び込んで来たのは、マンションの駐車場から聞えて来る、そう遠くはない昔に良く聞かされた車の独特なエンジン音。
この音は、忘れもしない―――。
「―――シボレーコルベット・コンパーチブルだ・・・・・」
溜息混じりに悟空が呟いて来る。
近いうちに来るとは確かに聞いてはいたが、今朝そう聞いてまさかその日のうちに来訪してこられるなどと、誰が想像しただろう。
・・・幾らなんでも早過ぎやしないか。
心の準備も何もあったものではないではないか。
何と言って三蔵に話したらいいのだろうか。
それすらも分からなくて、悟空は困惑したままで三蔵の顔を見上げた。
真っ直ぐに自分を見つめて来る黄金色の瞳が何かを諦めたように瞬時に揺れる。
この瞳の揺れ具合から悟空の心情を探ろうとしても、これがなかなかに困難を極めていたから、三蔵こそ溜息混じりの声が漏れた。
「・・・・シボレーコルベットが、どうしたって?」
その質問には答えぬまま、自分の顎を持ち上げていた三蔵の手を悟空の小さな手がそっと外しに掛かる。そして踵を返しつつ一緒に来て、と視線で促してくるのだ。
まだ鳴り終える事のないエンジン音に惹かれるようにベランダまでやって来た悟空は、そこに存在する窓を全開にし、ゆっくりと階下へと視線を落とした。
黄金色の瞳に映り込んだのは、黒い車体を惜しげもなく曝け出し太陽光を反射させその眩しさを際立たせたスポーツカータイプの外車だ。
己の目で確認する以前に独特のエンジン音を耳にしただけで悟空の頭の中に瞬時に浮かんで来た車体とそっくり同じものが今、階下にその存在を誇示していた。
背後から同じ様に階下を見下ろした三蔵が軽く紫暗を細めて囁き掛けて来る。
その紫暗には、やはり黄金色の瞳と同じ様に黒の車体が映り込んでいた。
「メーカー50周年記念の限定モデルか。このマンションにあんな車に乗る奴が居るようには思えんがな」
あんな派手な事この上ない外車に乗ってくるような趣味の悪い人間が居たのかという意味と、相当に高価である筈の限定モデル車を購入出来るような甲斐性のある住人がこのマンションに居たのかと、その二つの意味を込めて呟かれた台詞のようだ。
「良く見てよ、三蔵。あの駐車場は来客者専用の駐車場だよ」
悟空に指摘されて良く良く見てみれば、確かにその車の駐車スペースはマンションの住人用に設けられたものではなく、来客用に用意された数箇所のスペースのうちの一つであるという事に気付かされる。
客人であろうと住人であろうと、如何にも人目を引く為に購入したのだろうと思われるあんな車を運転している張本人は、多分に三蔵自身一番に理解不可能な人種である事には間違いがない。
「ったく、ろくなもんじゃねぇな」
悟空に外車志向があるとは思えなかったから、何故あの車の名称をそんなに詳細に知っているのかと幾分不思議に感じながらも、階下に見える車のあまりの華美な雰囲気に嫌気が差し窓を閉めようとした三蔵の手を掴んで止めたのは、やはり悟空の手だった。
そして、その直後。
悟空はとうとう意を決して、その耳元に告げるのだ。
「―――あれ、俺の客だから」
「あ?」
「俺の客なんだよ・・・・多分」
開け放たれた窓から入り込んだ風に大地色の髪を揺らしながら呟かれた悟空の台詞に、言葉を返そうとした三蔵の唇は次の瞬間、真一文字に結ばれた。
その車の運転席からドアを開け降りてきた人物の容姿に驚愕し、返す言葉すら失ったからだ。
金色の髪。
紫暗の瞳。
違っていたのは髪の長さだけで、他はすべてが己に酷似していた。
印象が強すぎて。
忘れようにも忘れられなかった。
悟空がバイトとして、今現在三蔵の勤務している会社に入社したての頃に執り行った歓迎会で見せられた、あの写真。
『うーん、これは似てるとか似てないとかの問題じゃないですね。血縁関係とか、ないんですか』
あの写真を目にした瞬間の唸るような八戒の呟きと、そこに写されていた自分と良く似た顔が、まざまざと三蔵の脳裏に浮かんで来た。
今、現実に己の目の前にその人物が実態となって現れているのだ。
―――これを何としよう。
普段如何なる時でもそれを崩さない三蔵の表情が一瞬それを変えた事実を悟空自身はっきりと認識してしまっては、思わずその場から逃げ出してしまいたいような衝動にさえ駆られてしまう。
「悟空」
悟空が逃げ出す前に、先手を打って声を掛けて来たのは三蔵だ。
それも名前で呼ぶあたりが計算高い。
こんなふうに呼ばれてしまったら、振り向くしかないではないか。
恐る恐る振り返った後で小さく小首を傾げながら、三蔵のご機嫌を伺う如くに悟空が尋ねて来る。
「えっと・・・、何・・・・?」
「どういう事だ、これは。何であいつがここに居る」
「―――ええっと、その・・・・、遊びにでも来たんじゃねぇの?」
「来るか、普通」
「三蔵の顔、見たかったのかも知れないよ?俺が『凄く良く似てるんだよ』って話してたから」
「馬鹿。あの男が俺の顔なんぞ見たいと思うわけねぇだろ。張り倒したいって言うんなら納得出来るがな」
金蝉よりも三蔵を選択しその胸に飛び込んでいったのは、他でもない。悟空自身が起こした行動だった。
だから三蔵には何の責任もないし、金蝉に張り倒される理由にど何処もない、と悟空はそう思っている。
―――とはいえ。
三蔵の発言通りに金蝉の立場からしてみれば、三蔵の存在は赦し難いものではある事は必須で。
この二人が顔を付き合わせてしまったら最後、穏やかな時間の経過などある筈もなく。
二人の間に唯一流れるものがあるとすれば、お互いに感じている筈の、『敵対意識』。
ただそれだけだろう。
今朝の電話を受けてから、まだ数時間しか経っていないというのに。
まさか、こんなに早くに再会する事になろうとは―――。
正直悟空にも予想すら出来なかった最悪の事態が、ここに訪れた。
実は「桜花」を書き出した当初から。
いつか三蔵と金蝉を会わせて悟空を挟みバトルを
させてみたいと思ってましたvv
悟空には悪いんですが、書いていて楽しいです、この「再会編」は。
このノベルもやはりのんびり更新ですが、
見届けてやって下さいませ。