悟空の事を思い出すのが辛くて、あの桜並木にはあれ以来足を踏み入れていない。
今はもう青葉の頃だから桜の代わりに生き生きとした緑色の新葉が晩春の風に揺れ始めている頃だろう。
今までは本社勤務であった三蔵は営業所勤務に場所を変え、今まで以上に忙しい日々を送っている。
しかしこの営業所での勤務は後数週間で終了し、本社へ戻る運びとなっていた。
ここは数ヶ月前に新しくオープンしたばかりの営業所だった為、責任者を除きほとんどが現地面接し入社した新入社員ばかりだったから、日々外回りと出張に費やされ事務所に居る事の少ない責任者の代わりに、その指導要員として三蔵が送られただけの話で。
最初は不慣れに仕事に携わり、三蔵に度々喝を入れられていた社員達も少しずつではあったが仕事をこなす様になり、今ではその仕事振りを安心して見ていられる様になるまでに成長している。
これなら後二週間もすればすべて任せられそうだ、と。
三蔵は煙草の煙を吐き出しつつ忙しく動き回る社員達を眺めていた。
ここには本社と違い悟空を連想させるものは何ひとつ無い。
・・・・・そう、何一つない筈なのだが。
それでもいまだふとした瞬間に悟空を思い出すのは何故なのか。

―――抱いちまったのがまずかったか。

思わず口の端を吊り上げて笑みを施す。
「・・・・あ」
デスクの上に茶の入った湯飲みを差し出しながら女子社員が目を丸くしながらそこに立っていた事に気付くのが遅すぎたようだ。
「―――主任が笑ってるところ、初めて見ました」
それだけ言うと嬉々として給湯室に戻っていく女子社員の後ろ姿を見つつ。
給湯室で話のネタにされるのは間違いないな、と眉間に皺を寄せる三蔵が、そこに居た。






















『青葉』






















営業所からの帰途―――。
後もう少しで家に着くというのにそれを待ちきれずに煙草を咥え、火を点けるあたりは彼らしいと言えば実に彼らしい行動。
夜風に青葉がさわさわと揺れ、心地よいその音に三蔵は耳を澄ました。
こちらで自宅として借り受けている一軒屋に着き、その前に立ったのだが。
部屋の窓から灯りが漏れているのに目を見張る。
ドアノブを回してみると、鍵も開いている。
驚いて取り急ぎドアを開けた。

玄関には見慣れない靴が一足。
ゆっくりとリビングに向かう。
万一の為、右手は内ポケットのS&Wを握っている。
泥棒がわざわざ靴を脱いで入り込むとは思えなかったが、こんな物騒な世の中では用心に越した事はない。
リビングに続くドアを幾分緊張した面持ちでそっと開けた。

―――そこにあったモノ。
見慣れた茶色の髪と金色の瞳。

そしてそれは、リビングに突然現れた三蔵にほんの僅か驚きながらもすぐに満面の笑みを浮かべ己を迎える言葉を発して来る。

「お帰りなさい!」

元気よくそう言われるのにこちらは面食らって何と返していいのやら分からない。
「おまえ・・・・」
「おまえじゃないでしょ。お帰りなさいって言われたらただいま、でしょ。親から教わらなかった?」
「なんでこんなところに居るんだ、てめぇは!」
珍しく三蔵が声を荒げている。
表情にはあまり表れていなかったものの、やはりかなり驚いているのだ。
そんな三蔵に悟空が笑顔を崩さずに言う。
最初の部分は三蔵に似せようと低い声で。
「そんなに好きだったら相手がどこにいようが追いかけていきゃいいだろう、会って自分の気持ちぶつけてみろ・・・・って言ったのは誰でしょう。その言葉に従ってみました」
悟空の言葉に三蔵が半ば呆れ返りつつ上着をソファに投げ捨てた。
自分がどんな思いで悟空を金蝉の元へ送ったのか。
目の前の少年はそれをまったく理解していない。

「―――却下」
「なんだよ、それ」
「どっかのバカが勝手な事ほざきやがるから却下してやったんだろうが」
悟空の顔を見る事も無く言われるのに悟空がふくれっ面で言い返した。
「・・・・・だって好きなんだからしょうがねぇじゃん」
「ガキか、てめぇは」
そんな言い合いをひとしきり施してから三蔵がテーブルを挟み悟空に向かい合う様に座った。
灰皿を引き寄せ、灰を落とす。
窓の外から僅かに聞こえる青葉のざわめきに、二人でその音に耳を済ますかのように沈黙した後。
悟空が小さな声で三蔵に告げた。
「―――金蝉に追い出されちゃった」
「ぁあ?」
器用に片方の眉だけ上げて三蔵が短く返事を返して来た。
全く、何をやらかしてくれたのか。
己が身を切る思いで悟空を送り出した、あの行為は無駄だったのだろうか。
そんな事をつらつらと考えている三蔵の思いなど知る良しもなく、悟空は愛らしい表情で懇願して来るのだ。
「そんなんで住むとこ無いわ、お金は無いわでさ。また、あそこで働けないかなぁって思って。今、バイト募集してない?」
「募集はもう打ち切った。定員超えたんでな」
「えーっ、そうなの。残念」
心底がっかりした様に悟空が俯いた。
悟空のそんな落胆振りに紫暗を留めつつも、三蔵にとっては先程の悟空の台詞の方が気になって悟空に尋ねてみる。
「・・・・そんな事よりおまえ、追い出されたってどういう事だ」
煙草の灰を落としつつ煙を吐き出す三蔵を見つめながら呟かれた台詞は、相当な愛の告白であった筈なのだが。
「俺、三蔵の事、忘れられなかった。ずーっと三蔵のことばかり考えてて・・・・。感のいい金蝉に気付かれない筈が無くって・・・・。他の男を思ってる奴なんていらないって追い出されたの」
悟空が上目遣いに三蔵の顔を見ながら言うのに少々頭痛を覚えて、こいつは根っからのバカか、とその表情を顰めつつ小さく息を吐き出した。
・・・・確かに甘い台詞ではあったのだが。
どうにも今までの己の苦労は何だったのかと思わせるような台詞にやはり三蔵の口からは意識せずとも溜息が
漏れるのを止める事が出来なかった。
「ねぇ・・・・。一つだけ聞いていい?」
突然に悟空が首を傾げて聞いて来る。

―――こんな姿を見てつい可愛いなんて思っちまう自分もバカか。

苦笑しつつ、再度深く溜息を付いた。

「あの人の事・・・・・。今も・・・・好き?」
想いもしなかった事を、尋ねられて。
あの人・・・・?、と一瞬誰の事かと思考を巡らせた後で三蔵が思い当たってああ、あいつか、と納得する。
三蔵が煙草の煙を吐き出しながら悟空の顔を見やれば。
どんな返事が返って来るかと不安げな顔でこちらを伺っているのが目に取れる。
その表情に俯き加減で苦笑を施しつつ。

追い出されたというのなら。
もう嘘など付く必要もなくなったかと。
静かに息を吐き出して。
真実を告げる決心をし、ゆっくりと言葉を発した。

「―――あいつならただの会社の同僚だ」
「へっ。・・・・だって、抱いたって・・・、抱いたって言わなかった?」
「んな事言ったか」
「言ったよ!」
思い切り元気良く叫ばれるのに耳に小指を当てその声から耳を塞ぐ仕草をしてみせれば見事に悟空の頬が膨らむのだ。
「だいたい朝っぱらから背広着てデートする奴いねぇだろうが。同じ社員の奴だと思わなかったのか」
呆れた表情で三蔵にそう告げられるのに、顔を下に向けて悟空がばつの悪そうな声を出したのは、当然の事で。
「思わねぇよっ。だって見た事ない人だったし・・・・」
あの会社の社員人数を悟空は知っているのであろうか。
主任の三蔵でさえ社員の顔などすべては把握しきれていない。
思わず三蔵の口から本音が漏れる。
「―――やっぱりおまえ、バカだな」
「バカバカ言うな!」
顔を真っ赤にして怒る悟空にそこまで怒る事ねぇだろうが、と思いつつ三蔵は静かに紫煙を吐き出した。
かたや悟空はといえば、すっかり気が抜けたような顔をして。

―――恋人ではなかった。

その事実に、心底ほっとしたように溜息を漏らす。
それならば。
離れる必要などなかったのではないかと、一瞬そんな思いに囚われたが。
あのままもし三蔵の元に残っていたとしたら、自分の中で三蔵の存在がこれ程大きくなっていた事に気付く事はなかったかもしれない。
離れて距離を置いたからこそ、自分の本当の気持ちが見えて来たと。
悟空は心からそう感じていた。

「―――さっきの話だが」
三蔵に突然口火を切られて悟空がはっと顔を上げた。
「・・・・・・え?」
「住むところと、金の稼ぎ場所だ」
「心当たり、あるの?」
煙草を灰皿に押し当て、三蔵が口の端を吊り上げゆっくりと言う。
「ない事はない」
「えっ、どこどこ?」
「―――俺のとこへ来い」
以外な展開に今度は悟空の方が驚いた様で。
三蔵が帰って来る前に自分で勝手に淹れ飲んでいたコーヒーカップを落としかけた。
「・・・・・なんかそれってプロポーズみたいだね」
自分で言っておきながら顔を赤くして悟空が呟いた。
「バカ言ってんじゃねぇ。・・・・掃除、洗濯、料理。全部出来るか」
「あ、俺、掃除、洗濯、得意v」
「料理は」
三蔵の言葉に悟空は思わず苦笑しつつちろっと紅い舌を出して来た。
「―――これから勉強しまぁす・・・・」
そんな悟空の愛らしい表情に一つ溜息を付いてから、三蔵がゆっくりと煙草を灰皿に押し付ける。
一応結婚生活を送ってきた筈である。
料理はどうしていたのだろうか、と三蔵は疑問に思った。
まさか、夫である金蝉にすべてを任せていたわけじゃないだろうな、と一抹の不安を感じたりもする。
しかし、行くところが無い、と泣き付いて来ている愛しい存在を無碍に扱う事は出来そうもない。
「・・・・まぁ、いいだろ。言っとくが給料安いぞ」
「いいよ、その分身体で払ってもらうから」
「ふざけんな」
三蔵がくすくすと楽しそうに笑う悟空のよそに次の煙草に火を点ける。
笑いを治めた後で、悟空が伏目がちに三蔵に告げた。
「―――俺、ここのドア開けるのにすごく勇気入ったんだよ。あの人が出て来たらどうしようって・・・・」

悟空がこの家の前に着いた時。
インターホンを押そうとした手を何度引っ込めたか、分からなかった。
何度も躊躇った後。
迷いをふっきるようにそれを押した。
散々悩んで意を決してこのドアを開けた時の悟空の表情を想像すると思わず笑いが込み上げて来る。
きっと、それは百面相のようにころころと表情を変えていた事だろうと。
そんな事を考えながら。
そこで妙な事に気付いて。
すぐさま悟空にその疑問をぶつけてみた。
「・・・・・ちょっと待て。おまえ、どうやってここのドア開けた?鍵はどうした」
「鍵なんてかかってなかったよ。前に風邪でダウンしたときもかかってなかったし。あの時は熱があったから忘れちゃったんだと思ってたけど・・・」
そこまで言ったところで悟空が今更に気付いた様に首を傾けて聞いて来た。
「もしかして、三蔵って意外と抜けてる?」
「―――うるせぇよ」
照れた様に三蔵に言われ、悟空が笑う。
その笑い声を消すかの様に。
すっと腰を上げた三蔵の腕が、悟空の細腰をぐっと引き寄せた。
そしてそのまま静かに口付けを落とされる。
最初の口付けは、さらっと交わされた軽い口付け。
一度唇を離した後でもう一度交わされた口付けは、会えずにいた時間を埋めるが如くに濃厚なものとなる。
二人の唇が名残惜しそうに離れると、悟空がにっこりと笑い甘く耳元に囁き掛けて来た。
「これで本採用決定だね」
「・・・・いや、まだ仮採用だな」
意外な三蔵の言葉に悟空の眉が不服そうに潜んだ。
「ええっ、なんで」
「試用期間を三ヶ月設けさせてもらう。その間の働きが悪ければ即刻クビだ」
「げっ。そんなんずるいっ」
三蔵の言葉に抵抗を試みるが。
立場の弱い悟空が三蔵に勝てるわけもなく。
まるで会社に居るかのような口調で、目の前の男は悟空に指示して来るのだ。
「二週間後に本社へ戻る。それまでに荷物まとめておけ」
やはり会社の延長のようなその物言いに、悟空が小さく笑う。
























さわさわと夜風になびく青葉が窓の外から二人を見守る様に揺れている。
悟空がそんな外の景色にその金目を止める。
この景色をこれから三蔵の側で見ていられる事が出来るという事実に、悟空は思い切って三蔵の胸に飛び込んで良かったと。
心底そう思いつつ愛しい人の肩にその頭をそっと預けた。