「好きだ」とか。
「愛してる」とか。
そんな言葉はいらないけれど。
ただ貴方の側に居たくて、その顔を見ていたくて。
それさえも許されない事なのかな。
貴方はきっと平気なんだろうね。
俺に会わなくても。
―――俺は平気じゃないみたい。
何を見ても何をしていても、楽しくないよ。
貴方と一緒の空間で、見たものはすべてが輝いて見えて。
貴方の側に居られた時はどんな些細な出来事でも嬉しかったのに。
貴方と知り合う前は、どうやって生きて来たんだろう。
ついこの間まで一人でちゃんとやって来たのに、何時からこんなに弱くなっちゃったのかな。
・・・・・ね、三蔵―――。
Tragedy
―――登庁して、すぐ。
まだエレベーターの中だというのに煙草に火を点け煙を思い切り吐き出す。
その紫暗は、朝からいつにもまして不機嫌だ。
その原因は今朝朝一でこなさなければならない仕事の内容、それに昨日とうとう自分の正体を悟空に明かしてしまった事への悔恨から来ているものだ。
わざわざ告げるべきではなかったかも知れない。
あのまま、黙って消えていれば例え傷付いたとしても・・・・・あそこまで酷く傷付ける事は避けられただろう。
しかし、あの瞳で、あんなふうに本心を告げられた瞬間に―――どうにも止められなくなった。
ドアが開くとともに幾人かの人間が乗り込んで来て、それと交互して三蔵がフロアに降り立つ。
五階に位置する生活保安部・保安第一課の一室に足を踏み入れてすでに画面一杯に流れている映像に思わず舌打ちが漏れた。
「珍しいねぇ、遅刻なんて。ちょっとたるんでやしませんか」
椅子に腰掛けたまま振り返り声を発したのは同期の捜査員―――名は宋という。
「遅刻常習のてめぇに言われたかねぇよ」
返された声音は、やはり思い切り不機嫌だ。
その不機嫌の原因は、今目の前にあるテレビに映し出されている映像の所為。
―――画面を見ているだけで、吐き気がする。
「朝からする仕事じゃねぇな」
そう三蔵が呟きながら椅子に腰掛ければやはり煙草を燻らしている宋がビデオのリモコンを器用に片手で弄びつつ溜息混じりに愚痴る。
「保安一課は仕事中に公然と裏ビデオの鑑賞が出来ていい、なんて抜かす奴の気が知れねぇわ。こんなのしよっ中見せられたら感覚が麻痺して勃たなくなりそう」
大規模な裏ビデオネットショップの、一斉摘発。
押収されたビデオの本数は・・・・・数え切るのが困難な程。
そのビデオの一本一本を証拠品として確認しなければならないのだから、気の遠くなる話だ。
幼い少年を陵辱する事を趣向とした客の為に作られたビデオは見ているこちらが辛くなるような代物。
ものの十分と立たないうちに、三蔵が根を上げた。
「もういい。止めろ」
低い声で言われるのに、宋ががリモコンの停止ボタンを押しながら声を張り上げた。
「ったく、保安課なんて配属希望出すんじゃなかった」
滅多に他人との意見の同意を見ない三蔵だが、今の宋の言葉には頷けるものがあった。
見た目も派手で将来的にも昇進の可能性の高い捜査一課にでも希望を出した方が利口だったか、とそんな事を考えつつ。
新しい煙草を取り出して火を点けようとしたところで。
三蔵のその仕草を見届けていた隣の宋の動きが止まり、声を掛けて寄越して来る。
「・・・・あれ。いつものライターはどうしたのよ」
ここ最近大事そうに持ち歩いていた純銀製のライターが見られず、そこらのコンビ二に置いてありそうな安っぽいそれを手にしている三蔵に宋が首を傾げた。
火を点してそれを煙草の先端に近付けつつ返された返事の声は、僅かに掠れている。
「―――何処かiに忘れてきたたらしい」
・・・・忘れたわけではない。
置いてきたのだ。
悟空のマンションの寝室の、サイドテーブルに。
それは、悟空には二度と会わない、という意思表示。
意外にも勘のいい悟空には言葉にしなくてもそれだけで伝わる筈だ、と故意に置いてきた。
いや、そんな意思表示をしなくても、正体を明かした昨日の時点で、悟空の自分に対する想いは変化を遂げた筈。
―――愛しさから、憎しみへ。
向こうから行動を起こして来る事も、もう二度とないだろう。
・・・・・これで終わりだ。
「もったいねぇなぁ。あのライター、おまえが買ったもんじゃねぇだろう。センス良過ぎだもんなぁ」
そこまで告げて、何かに気付いたようにがちらりと紫暗に意味深な視線を送りつつ囁かれた。
「・・・恋人からもらったってとこか。そんな大事なもん、失くしたらまずいんじゃねぇの」
こいつは仕事は出来るが如何せん余計な事を喋りすぎる。
そう心の中で呟いて故意に話題を仕事に戻したのは三蔵だった。
「薬物対策課、呼んで来い」
きょとん、とした顔で宋の黒い瞳が紫暗を見届ける。
その顔を一瞥して溜息を吐き出してから返された三蔵の台詞には、呆れたような、少々馬鹿にしたような、そんな意味合いが込められていた。
「・・・気付かなかったのか」
ビデオの少年の腕に僅かに残された注射痕。
泣き叫び暴れる子供でビデオを撮る場合、おとなしくさせる為に薬漬けにするのは良くある話。
そうなると、この保安第一課だけでは対応が難しくなる。
三蔵に半ば呆れるように言われ流石に彼もピンと来たようだ。
んじゃ、ちょっと行って来るわ、と小声で三蔵に伝えて椅子から立ち上がり如何にも警察官らしい俊敏な動きでドアを開け、宋が部屋を後にした。
自分の吐き出した煙により部屋の中は真っ白な空間と化している。
それを外に追いやる為に窓を開ければ―――。
三蔵が敏感に反応したのは、潮の匂いを感じ取ったから。
このビルの立ち並ぶ東京の中心で、潮の匂いを感じる事など有得る筈もないのに。
砂浜で仔犬とじゃれあっていた時に惜しげもなく曝け出された、眩しい程の無邪気な笑顔を思い出す。
続いて頭に浮かんだのは、自分の正体を告げた時の、悟空の驚愕した顔。
―――そして。
何時までも頭の中から離れないのは。
『貴方を愛してる』
そう告げた時の、切な過ぎる黄金色の瞳。
ふと手元に持っていたライターをもう一度、握り直してそのあまりの軽さに手応えがなさ過ぎる、と苦笑する。
あのライターの抜群の使い心地の良さが、その手の感触にいまだ残っていて記憶から抜ける事はない。
・・・・・・未練、か。
心の中で、そんな言葉を思い浮かべた後は記憶の中の悟空を打ち消すかのように、その窓を静かに閉めた。
「いわゆる内偵捜査ってやつですか」
事務所の中に差し込む日差しが、季節が夏に入った事を十分に伺わせる。
その余りの眩しさに思わずブラインドカーテンを降ろしつつ八戒が悟空にそう告げて来た。
三蔵の職業を悟空から聞かされた八戒からは、深い溜息が漏れたもののあまり驚いた様子は見受けられなかった。
「・・・・・八戒、もしかして知ってた・・・・?」
何時もとなんら変わりなく落ち着き払っている八戒に尋ねてみる。
「いいえ。実は、こちらでも色々と調べてはいたんですよ、彼の事は。僕もこんな仕事をしている関係で、一応顔は広いんで・・・・・・・でも、結局決定打がなくて」
悟空が座っている応接セットに向き合うよう腰掛けて、悟空にはい、とクッキーの入った缶を差し出しながら続けた。
「あの人、あの外見でしょう?何もこんな所で相手を見つけなくてもいくらでも寄って来る筈ですから、何か変だなと」
そこまで言ってクッキーの缶をテーブルに乗せて。
その中から一枚のクッキーを手にし、悟空に差し出してから囁かれた。
「それに悟空が随分とご執心のようでしたから、それも心配でしたしね」
長くこの業界に身を置き多種多様な人物を見届けて来た経験からの勘、というものかも知れない。
この男には何かある、と。
玄奘三蔵という男に疑いの目を向けていたのは確かだった。
差し出されたクッキーに対しそれに全く手を付けようとしない悟空に目を見張る。
滅多にお目に掛かれないその態度に驚かされた。
「食欲、ないんですね」
八戒が、心配気にその顔を覗き込んだ。
・・・・・・食欲なんて、ある筈もない。
息をするのでさえ、今の悟空には困難だ。
―――この何とも言えない脱力感に苛まれて、何一つする気が起きないのが実情で。
「で、この仕事、辞めるんでしょう。今日はそれを言いに来ました・・・・?」
愛しい人からこの事務所に予約の電話が入る事はもう二度とない、という現実。
内偵捜査が終了したという事は、いつ何時警察がこの事務所に踏み込んで来ても可笑しくはない、という現実。
その二点の事柄から、そう判断し八戒が悟空にそう尋ねた。
多分に悟空の方からはそう言った事は言い出しにくいだろう、とあえてこちらからそれを切り出したのは、如何にも八戒らしい―――配慮。
「・・・・ああ、なるほどね」
「―――え?」
突然呟かれた八戒の短い台詞に隠された真実を聞いてみたくて、悟空がその真っ直ぐな視線で碧眼を捉えた。
「昨日、あの人に電話で言われたんですよ。『悟空はもう二度と客は取らない』って・・・・・。こういう事だったんですね」
「電話・・・・・・?」
いつあの人からここに電話が入ったのか、とそんな疑問を湛えて金目がこちらを覗き込んで来る。
ああ、やっぱり彼からは何も聞いてないんですね、と八戒が小さく溜息を付いた。
何となく、予感はあったのだ。
きっとあの男は事務所から電話があった事を、悟空に伝えたりはしないだろうと。
あの電話での受け答えを聞いていた限りでは、あの玄奘三蔵という男は悟空に対し少なからず好意を持っていたと、八戒はそう踏んでいるのだが。
それとも。
すべては、内偵捜査を滞りなく成功させる為の行動であり、そんな感情は一切持ち合わせてはいなかったのか。
―――悟空自身が本人に会って確かめた方がいいように思いますけどねぇ。
そんな事をつらつらと考えつつ、茶を淹れようと席を立とうとした八戒に、悟空がその肩を押さえ込んで止めに入った。
「俺にやらせて。―――とびっきり美味しいの、淹れるから」
いつもの元気溢れる笑顔でそう告げてから。
「これで最後だからね」
静かに囁かれた言葉は、何だか重味があって。
アールグレイをポットに淹れて、湯を注ぐ。
こんなふうに何度八戒に紅茶やコーヒーを淹れてもらった事だろう。
仕事の予約のない時でも、ただ話がしたくてここに脚を運んでも、八戒は嫌な顔一つせずこうやってもてなしてくれた。
それは、兄弟のいない悟空にとってはまるで兄が出来たような感覚だった。
事実幾ら想い人が客の中に居たとしても、事務所の責任者が八戒以外の人間だったら、この仕事を継続していくのは無理だったように思われる。
コトン、と小さな音を立てて置かれたカップからは、アールグレイとカットされたレモンの香りが漂っていた。
一口紅茶で喉を潤してから、八戒が尋ねて来る。
「これから、どうするんですか」
今後の身の振り方―――。
八戒としても、両親から離れ一人で生計を立てている悟空がこれから何を生業として生きていくのか、正直心配だ。
こんな事務所の責任者を務めている身上でこんな事を思うのは可笑しいかも知れないが―――やはりこの世界には、もう二度と戻って来て欲しくはない。
「八戒こそ、この事務所閉めてしばらく海外にでも行ってた方がいいんじゃない。近々警察、来るんでしょ」
自分への問いには答えずに悟空はそう切り返して来る。
「僕は大丈夫ですよ。何度も捕まってますから慣れてますし」
そんな八戒の言葉に、思わず苦笑が漏れた。
長い間こんな裏家業に従事していれば、警察の世話になる事も一度や二度ではなかっただろう。
けれど。
決して短くはない期間仕事仲間として八戒の側に居た悟空は知っている。
彼こそが、もっと真っ当な世界で生きるに値する人間であるという事を。
「そんなのに慣れてどうするんだよ。八戒は他人の心配ばかりしてないでもっと自分の事大事にしなきゃダメだよ」
自分よりもかなり年下の悟空にまさかそんな事を言われるとは思わずに手にしていたカップをテーブルに置いてから、八戒が感心したように声を上げた。
「―――何だか大人になりましたね、悟空は」
やはりここへ来て彼に出会い、恋をし、別れを経験した事で悟空の中で何かが変化を遂げたのだろう、と。
辛く切ない恋も無駄ではなかったか、と碧眼を揺らして八戒が悟空を見やる。
一気に紅茶を飲み干して、悟空が柔らかな笑顔を見せつつ立ち上がった。
「俺、もう行くね」
「・・・・ちょっと待って下さい、悟空」
ドアに向かい歩き出した悟空に届いた声は、いつもよりも優しく癒されるような声音だ。
「あの人が自分の正体を明かしたのは、貴方に憎まれる事よりも、貴方が警察に逮捕される事を嫌ったからだと思いますよ。―――その辺りの気持ちは汲んでやって下さいね」
「・・・・・分かってる」
三蔵が自分の正体を明かす事によって公になってしまうのは、近いうちに警察がこの事務所に検挙に来るという事実。
それが事務所の責任者の耳に入れば、ここから逃亡する事は多いに有得る話だ。
そんな危険を冒してでも、あの男は悟空にに正体を告げてたのである。
それについては、悟空も感謝していたのだ。
「一度、彼ときちんと話し合ったらどうですか」
八戒が提案しても。
悟空の心は頑なだった。
「もう、いいんだ。・・・・・・忘れる事に決めたから」
そう告げて、こちらに笑顔を見せて来る。
でもその笑顔が何だか寂しげで、胸が詰まった。
ゆっくりと開けられた事務所のドアはその後悟空の手によって開けられる事は二度となかった。
寝室のベッドの上にうつ伏せに寝転がってペラペラと悟空が捲っているものは、求人誌。
「・・・・・これっていうの、ないなぁ・・・・・」
大抵の仕事は今までに比べると給料が格段と低くなるのは当然だ。
もうああいった業種には戻るつもりはなかったし、戻りたくもなかった。
しかし、この落差にはやはり悟空としても色々と考えさせるものがあったようだ。
「やっぱこのマンション引き払わないとダメかな・・・・・」
一人暮らしにしては広すぎるこのマンションに今まで住む事が可能だったのも、あの仕事に携わり普通なら考えられないような収入を得ていたからこそ。
真剣に引越しを考えなければならないか、とそんな事を考えながら。
ふと、求人誌から視線を外して、窓の外を見つめる。
外には眩しい程の太陽と、煌めき揺れる青葉と。
「―――天気、いいなぁ・・・・・・」
こんなにいい天気なんだし、不動産屋巡りでもしようかとそう思い立ちすっと立ち上がった瞬間。
目に入ったものは、サイドテーブルに置かれている純銀製のライター。
それを目にすれば、思い出す事は分かっているのに。
辛い想いを重ねても捨てる気になどなれなかったし、視界に入る事のない場所に隠す事すら、何だか憚られた。
僅かに震える手でライターを取り、蓋を開け、それを閉める。
何度も、何度も繰り返し。
カチッ。・・・・・・・カチッ。・・・・・・カチッ―――。
この音を耳にしただけで、今でも鮮やかに回想される、貴方の煙草を手にした姿―――。
忘れたのではなく、ここに故意に置いていった訳も十分過ぎる程分かっている。
―――そんなに簡単に忘れる事が出来るなら。
こんなに辛い想いはしていない。
貴方に会わなければすぐに忘れられると思った自分が甘かったと思い知らされたのは、別れてからすぐの事。
貴方に会いたくて、仕方ない。
貴方に触れたくて。
貴方に抱いて欲しくて・・・・・。
ベッドの側壁に置かれた、ワードローブの鏡に映る自分に、思わず苦笑が漏れる。
「・・・・・なんて顔してんだよ」
自分でも呆れ返る程の、情けない顔。
ライターをぎゅっと握り締めて、それを見つめて。
「やっぱり俺が持ってても似合わないよ。・・・・・貴方の為に買ったんだから・・・・」
堪え切れずに、溢れた涙。
もう、こんな想いは二度と嫌だ。
この先、絶対に人を好きになったりしない。
―――だって俺は。
貴方以外には誰も愛せないから・・・・・・。
一言コメント
今回から登場、オリキャラの宋捜査員。
これから先も登場します。
三蔵の仕事紹介しました。こんな事してます。
多少資料も参考にしてますがほぼフィクションです。
警察関係に従事なさる方、突っ込まないで頂けると有難いです。
前回は三蔵非難轟々でしたが、今回は彼の
想いも判明しましたので少しは報われるかな、と。
しかし悟空、相変わらず切ないですねぇ・・・・。