ここ数日飽きもせずに続いていた刺客の襲来もなく。
実に平穏な、贅沢とも言えるくらいののんびりとした時間が経過していた、そんなある日の午後。
ここのところ野宿が続いていたから、久しぶりに取れた宿の浴場でまだ日も高いうちからゆっくりと湯船に浸かり、疲れを取ったところで部屋へ戻った三蔵を待ち受けていたものは。
―――あくまでもにこやかに微笑んだ八戒だった。
しかし。
彼の瞳は決して笑ってはいない。
その意味ありげな微笑を視界に入れた瞬間、一気に疲れがぶり返したようなそんな感覚に三蔵は囚われた。
一度は開け放った部屋のドアを、中に入らぬままもう一度閉めてやろうかとも思ったが、どこへ行くんですか、ここは貴方の部屋でしょう、とたしなめられるのがオチなのは分かっていたから、覚悟を決めるしかなさそうだとそれを諦め中に入り後ろ手にドアを閉めた。
「三蔵、ちょっといいですか。大事な話があるんです」
やはり来たか。
と、三蔵はそう思う。
こうやって八戒が態々自分の部屋へ出向いて来たのだから、何か大事な話でもあるのだろうと予測はしていた。
仕方なく、先を促してやる事にする。
こういう時はさっさと用件をすませて貰って早々に退室して貰うのが一番の得策だと、そう三蔵は考えたようだ。
「――何の話だ」
「悟空の事なんですけど・・・・・」
悟空絡みの話であろう事もすでに予測の範疇だ。
八戒と三蔵の二人にとっての共通な大事な話と言えば、それに関する事ぐらいしか思い浮かばなかったから。
八戒自身、自称悟空付き保父さんと言うだけの事はあり、悟空の事に関してはそれはもう過保護過ぎるくらいに気に掛けていた。
そして。
そんな八戒以上に悟空に関する事ならどんな些細な事でも知っておきたいと思わずにはいられない程、今現在の三蔵にとっては悟空の存在は大きなものへと変貌を遂げている。
知り合ったばかりの頃は、何かにつけて「さんぞー、さんぞー」と自分の名を呼ぶ、何と煩い子供なのかと。
三蔵が悟空に抱いた印象の中で最も強かったのはそれだった。
ただその煩さが決して心底毛嫌いするようなものではなく、その子供がいざ居なくなると静か過ぎて仕事が一向にはかどらないでいる自分が居る事に気付いた時点で、もうすでに悟空の存在は三蔵にとって特別なものへと進化していたのだと思われる。
長い間寺院で悟空と生活をともにし。
そして三仏神の命を受け、これまた悟空とともに長い旅に出れば、やはり日に日に情は移っていくというもので。
―――正直に言ってしまえば、独り占めしたくなってしまったのだ、愛らしいその存在を。
特に、それまでは三蔵と悟空の二人で日々暮らしていたものが、旅に出るようになり八戒と悟浄の二人が加わってからというもの、三蔵の独占欲は酷く顕著に現われ始めた。
そして、悟空自身も三蔵に独占される事を望んだのだ。
だからこそ、所詮紙一枚の儚い繋がりでしかないとは分かっていても。
面倒な事務的処理をもっとも嫌う三蔵が―――思い切って入籍までしてしまったのだから。
まだ生乾きの金糸を軽くかき上げつつ、八戒が口を開くのを待っていたのだが。
なかなか続きの台詞を発しようとはしないから、三蔵が再度促してやる羽目になる。
「さっさと言え。あいつがどうかしたのか」
「もしかして・・・・・・」
言いにくそうに口篭るあたりが八戒らしくないと言えばらしくない。
だから何だ、はっきりしろ、と眉間に皺を寄せたまま多少苛付きながら声を発すれば。
ようやくその重い口が開いた。
「おめでた、なんじゃないですか」
「・・・・・ぁあ?」
「だから、妊娠してるんじゃないかなぁって。僕は思うんですけど。違います?」
予想外の台詞。
これには三蔵も驚いたようで。
口に咥えていた、これから火の付けられようとしていた煙草が、ぽろりと床に零れ落ちた。
―懐妊 1―
繁華街のちょうど中央に位置するその食堂はまだ夕食時にはいささか早い所為か比較的空いていた。
「腹が減った」と異様に騒ぎ出した悟浄が言うところの全身胃袋猿の為に。
「少々早めの食事タイムにしてあげましょう」と言い出したのはやはり八戒だった。
今日は朝から多数の刺客のお出迎えに見舞われ、それなりに身体を動かす羽目になったから腹が鳴るのも無理はないのかも知れない。ここで足止めを食ってしまうのははなはだ不本意ではあったものの、かといってここで食事の時間を設けなければ悟空からブーイングが湧き起こるのは目に見えている。だから三蔵も渋々ではあったがそれに同意した。
悟浄は丁度喉が渇いたからと席に着いた途端ビールを注文し、悟空はといえばやって来たウェイトレスが呆れ返る程に次から次へと料理を注文し、三蔵は店の隅に置かれてあった新聞を悟空に「取って来い」と命令し自分は椅子に悠々と腰掛け煙草を取り出し火を点ける。
ここまでは、何ら変わりのない、いつもの彼らの日常。
違っていたのはここから先で―――。
程無くして、ウェイトレスがトレーに乗せ大量に持って来た料理を見た瞬間に悟空が露骨に気分の悪そうな顔でそれを見やったかと思うと、自分の注文した料理であるに関わらず目の前に置かれたその皿を自分の前から遠ざけたのである。
いつもとまるで違うその反応に、
「―――何してんだ、てめぇは」
と、珍しく一番に口を開いたのは三蔵だった。
いつもなら料理が来た瞬間に「頂きます」もろくに言わず皿ごと食べてしまうのでは、と思わせる程の勢いで食べ始め、三蔵に「もっと落ち着いて食え」とハリセンを叩き落されていると言うのに目の前に置かれた実に美味しそうな料理に全く手を出そうとしない。
「悟空、中華大好きでしたよね。どうしたんですか」
どうしたんですか、と八戒に心配そうに聞かれても悟空自身がこの状況に愕然としているのだから返事のしようがない。
中華料理なんて、大の好物。
味も大好きだけどこの匂いがたまらなく好き。
―――しかし、今日はこの匂いがどうにも鼻に付いて、全く食する気が沸いて来ない。
「・・・・・すっげぇ油臭くねぇ・・・・・?」
鼻を押さえつつ小声で悟空が呟くのに八戒と悟浄が訝しげに顔を見合わせる。
「臭いか?」
悟浄がテーブルの隅に重ねて置かれてあったアルミ製の灰皿を二つ取り一つは自分の前に、もう一つは三蔵の前に置きながら呟けば。
「いいえ。どちらかといえば、いい匂いって言った方が適切だと思いますけど?」
悟浄に尋ねられて八戒が素直にそう感想を綴った。
何度嗅いでもてもこの匂いは、中華料理独時の食欲をそそる何とも魅惑的ないい匂いであると、悟浄も八戒もそんなふうにしか感じられないのだが。
空になったグラスに手酌でビールを注ぎながら、いつまでたっても全く料理に手を出そうとしない悟空の様子を訝しげに見やり、悟浄が持っていた煙草で料理を差し聞いて来る。
「どうすんのよ、これ。全部食わない気?」
悟空以外の成人三人は食事よりも飲むのが主な目的である。
それぞれに少量ではあったが自分達の腹を満たす分はすでに注文済みだ。
今運ばれて来た料理を注文した本人が食べないとなるとかなりの量が残される事となる。
確かにそれはもったいない。
決して腹が減っていない訳ではない、いやむしろ先程から煩いまでに耳に付いている、空腹を訴える腹の虫を静かにさせる為には僅かでも目の前の料理を口にするべきだろう、と悟空は意を決して料理の乗った皿を手元に引き寄せた。
鼻で呼吸をしないように気遣いながら料理を一口分、箸でつまみそれを口に入れた。
―――次の瞬間。
がたっと音を立てて椅子から立ち上がり、悟空は口を押さえながら駆け出していく。
悟空が向かったその先のドアを開け放し、洗面所で食べた物を吐き出しているようだ。
その様子を見届けてから悟浄が故意にのんびりとした口調で三蔵の顔を覗き見ながら告げて来るのだ。
「・・・・・・これってさぁ」
そこまで言って、紫煙をふうっと吐き出して。
「俗にいうつわりってやつじゃねぇの?」
にやっとした笑みを浮かべ三蔵を見遣る悟浄と。
そんな悟浄の顔を紫暗で睨み付けてから視線をまた新聞に戻し、我関せずという態度を前面に出す三蔵と。
すぐさま席を立ち、悟空の背中をさすってやる為に洗面所へと駆け込む保父八戒と。
三者それぞれの思惑を乗せて、悟空懐妊騒動は勃発した。
大きな紙袋を抱えた八戒が、部屋のドアをノックする。
食堂で最後に出されたデザートは何とか入りそうだと四人分すべてを平らげた他はほとんどの料理が悟空の胃に収められる事はなかった。
あの様子ではきっと悟空は相当に腹を空かしているだろう、と。
そう考えた八戒は、食堂から直接宿へと向かった他三人とは一人行動を別にし、近場の食料品店で色々と買い込んできたわけで。
今日は三蔵と悟空が同室だから、そのドアを開け自分を迎えてくれるのは悟空だろうと踏んでいたのだが。
部屋のドアを開けた八戒をちらっと見上げて来たのは意外にも不機嫌さを露わにした紫暗の瞳だった。
三蔵がドアを開けにわざわざ来たという事は悟空はまだ気分の悪い状態が続いて動けないという事か、と八戒が不安気に部屋の中を覗き込む。
ベッドの中に横たわっている悟空の表情は心配された程に辛そうなものではなかったから安堵の溜息を漏らしつつ、「失礼しますね」と三蔵に告げその横を通り過ぎ悟空に紙袋を差し出した。
「食べられそうなものを見繕って買ってきました。食欲、ありますか、悟空」
「うん、さっきより気分いいかも」
言いつつ身体をゆっくりと起こし、中に何が入っているのかと興味深々で袋の中を漁り出した悟空に八戒が再度安堵する。
どんな食べ物も受け付けない状態だと心配にもなるが物によっては食べられない事もなさそうだ。
袋の中に入っていたものを悟空が三つ四つ選び出し、サイドテーブルの上に並べ出した。
そこへ並べられたもの。
グレープフルーツ。
パイナップルの缶詰。
ヨーグルト。
そして極めつけは蜂蜜漬けの梅干。
並べられたそれを見届けた瞬間に悟空の表情がぱっと明るくなる。
こういったあっさり系の食べ物なら食欲が湧くらしい。
今回、悟空が大好物の中華料理が食べられなかったのは、胃が悪いわけでも、体調不良だったわけでもないのが、これで確証された。
それが原因なら、すべての食べ物を受け付けない筈だし。
これだけ酸味の強い食べ物を並べられたら多少はしかめっ面になっても可笑しくはないと思われるのに、悟空のこの輝いた笑顔はどうした事だろう。
どれから食べようかな、と楽しそうに品定めする悟空を視界に入れた後で、八戒がちらりと三蔵の顔に視線を移した。
―――やっぱり、僕の見解は間違っていなかったでしょう?
そう言いたげに碧眼がこちらを盗み見てくるのに気付いていたから三蔵はまたその不機嫌さに輪を掛ける事となり、結果、消費される煙草の本数も増えていくようだ。
実は八戒はここ数日の悟空の体調の僅かな変化に敏感に気付いてた。
だからこそ、昨日の午後、風呂上りの三蔵を部屋で待ち伏せし、八戒自ら『悟空懐妊説』を説いたわけである。
三蔵はそんな事がある筈がない、とその場では全く相手にする気はかなったようだが、悟空のだめ押しともとれる今の様子を見る限り。
―――結局は八戒の見解で相違なかったという事になるのか、と。
三蔵自身、懐妊説を認めざる負えない状況に至ったようである。
食堂から部屋に戻って来て、そう大して時間も立っていないというのに灰皿にはもう何本かの吸殻が落ちている。それにも関わらず今もまた新しい一本に火が点けられようとしていたのを、八戒がすっとその口元から奪い取った。
てめぇ、何しやがる、と無言で訴え掛ける紫暗に対しては優しいながらも何処か厳しさを含んだ声で戒められる。
「もう一人の身体じゃないんですから。控えて下さい」
文字通り一人の身体ではなくなったかも知れない悟空が煙を吸い込む事を心配したのと、これから父親になるであろう三蔵に対してもう少し自分の身体も大事にして下さいと二つの意味を込めて、そんな言葉が返されて来た。
早速ヨーグルトの蓋を開け始めていた悟空にもその八戒の台詞はしっかりと耳に入って来たようだ。
「一人の身体じゃないって、どういう事だよ・・・・・・?」
そう無邪気な顔で聞いて来る。
あまりにも愛らしい表情で聞かれたものだから八戒もついつい微笑が漏れながらも、
「今度、ゆっくり説明しますね。とりあえず、今は食べる方が先です」
そう言いながら袋の中から店で貰ったプラスチック製のスプーンを取り出し悟空に渡した。
いただきます、と一言告げてから悟空はゆっくりとそれを口にする。
何とも言えず程良く舌に感じる酸味にヨーグルトというものはこんなに美味しいものだったのか、と改めて思い知らされる。
いつもは大の好物である中華料理が、その存在自体が許せなくなる程に嫌いになってしまい、代わりに普段なら見向きもしないこんな酸味の強い味覚にとてつもなく魅了されてしまっている今の自分の味覚の変化。
そしてここのところ頻繁に訪れる、一向に収まる気配のない吐き気。
さすがの悟空も何か感じるところがあったらしい。
「三蔵」
悟空が小さくその名を呼ぶと呼ばれた当の本人が、静かにこちらを振り返った。
その視線が自分の金晴眼と交じり合うのを待ってから、
「―――もしかしたら、これって・・・・」
消え入りそうな声で、確認するようにそう呟かれて。
そしてその呟きを耳にした三蔵からは、小さな溜息が漏れたという。