―――その夜も空襲に襲われる事もなく、静かに時が流れていった。
仕事から戻った三蔵が目にしたものは、悟空の瞳から零れる一筋の涙。
「どうした」と三蔵が顔を覗き込み尋ねるのに三蔵の顔を見てほっとしたのか小さく微笑んで悟空が言うのには。
都心のある町に爆弾が落ち、防空壕の中に隠れていた五歳と二歳の幼児が圧死した、とラジオのニュースで流れていたのを聞いたと言う。しかもその幼児の母親は地域の当番で家周辺の見回りをしていた為己のみ助かったとラジオが伝えた。
死亡した幼児の事のみならず一人生き残ってしまったその母親の心情を思い自然と涙が流れたと言う。






―――大切な人を失った時、俺はどうするんだろう。
・・・・泣くのか。
・・・・喚くのか。
三蔵がいなくなったら。
俺は泣く事も笑う事も。
すべて忘れてしまうかもしれない。



















『戦火』



















「こんばんは。悟空」
「久し振りだな」
玄関を開けてすぐに優しい碧眼と赤目の持ち主に声を掛けられる。
「―――いらっしゃい」
少々強張った表情でドアを開けた悟空が深い溜息を付きながら言うのに。
「どうしました。何かありました?」
やはり心配した八戒が悟空に目線を合わせるように腰を屈ませて聞いて来るのだ。
「あ、ごめん・・・・、赤紙が来たんじゃないかと思ったから・・・・」
華奢な身体を震わせて言われるのに、八戒と悟浄は思わず顔を見合わせた。
最近、悟空はドアを叩く音にひどく敏感だ。
赤紙と俗に言われている戦地への召集令状は役人が本人の家に直接届けにやって来る。
だからノックの音がする度に悟空が身体を僅かに震わせ身構えるのも無理のない話で。
「・・・わかりました。今度からは名前を呼びながらノックしますね。それならすぐ分かるでしょう」
八戒に気が付かなくてすみません、と謝られるのに悟空は首を横に振った。

居間に二人を通し、悟空は居間から続く台所へと向かった。
八戒と悟浄がちゃぶ台を挟んでその場に座る。
「あれっ、いねぇの・・・・?」
この時間なら間違いなくいるであろうと思われたこの家の主の姿が見えない事に、悟浄が気付き声を掛けて来た。台所で人数分の湯呑みに茶を淹れながら、悟空が居間にいる二人に聞こえるよう少々大きな声で答える。
「今日は遅番だから、もうじき帰ってくると思う」
三蔵は悟空と暮らし始めて以来、遅番や夜勤での勤務を極力控え日勤での勤務を続けていた。
―――勿論それは悟空に対する配慮以外の何物でもない。
敵機は大抵夜に襲って来る事が多かったから、なるべく夜は悟空を一人にしないようにと考慮した結果だ。
しかしそうそう日勤ばかりというわけにもいかなかったのだろう、今夜は夜勤だと言い昼頃から仕事へ出かけた。
特に今日は八戒と悟浄の訪問の予定がある事を知っていたから、なおの事夜勤でも大丈夫だと判断しての事かもしれない。

台所から湯呑みを盆に乗せ持って来た悟空が各々の前にそれを置きつつ、八戒に尋ねた。
「あ・・・・、お酒の方が良かった・・・・?」
食事は済ませてくるから、と八戒に言われたのでそちらの準備はしていないが、酒の肴になりえそうな材料位は冷蔵庫の中にある。
ただ、肝心の酒の方は特配で支給されたものしかなかったからたいした量はなく、この酒豪達にかかればすぐに飲み干してしまうのは目に見えている。
・・・・・さて、どうしたものか、と悟空が悩んでいると。
「僕がお店から持ってきましょう。ここからならすぐですから」
そう言いつつ八戒が立ち上がろうとするのを、悟浄が腕を掴んで止めた。
「俺、行って来るわ。最近この辺も物騒だから、八戒みたいな綺麗さんがうろついてると危ねぇかんな」
「・・・・・そうですか。じゃあ、お願いします」
今まで短い期間だったにしろ寝食を共にしてきた八戒と悟空に、水入らずで話をさせてやりたいという悟浄の心遣いから出た言葉であろうと理解した八戒が素直に言葉に従った。
じゃ、早速行ってくるわ、と立ち上がった悟浄に八戒が指示を出して来る。
「店を入ってすぐにある棚の一番上のを持って来て下さい。あれ、結構美味しいんで」
「了解」
悟浄がいかにも悟浄らしく片目を瞑って言うのに悟空が笑顔を見せる。
パタン、と閉められたドアを見届けてから一息付いて。
悟空が首を傾げて尋ねて来た。
「・・・・・いいの?お店だって、お酒不足してるんじゃないの」
そう言われて八戒がにっこりと微笑みつつ囁いた言葉は悟空に取っては意外な言葉だった。
「いいんです。もうそろそろお店休業にしようと思ってるんで」
え・・・・?と小さく悟空が声を上げるのは無理のない話だろう。
そんな話は初めて聞かされたから。
瞳を丸くさせてそのまま身じろぎすらしない悟空を見つめながら八戒が小さく息を吐き出した。
「食材がもう在庫切れで。配給されているものだけでは、お客さんにたいした料理出せませんから」
「・・・・・そうなんだ」
悟空にとっても、あの店がなくなるのは淋しい事この上ない。
店の雰囲気も落ち着きがあったし、客層も店主である八戒の人格に惹かれて来る客ばかりだったから店主に似たり寄ったりの穏やかな客が多かった為、店で不快な思いをした事など悟空は一度もない。実際に暮らしたのは短い期間ではあったが実に居心地のいい場所であった事には変わりなく。

そして。
何よりも悟空が三蔵と初めて出会ったのは、あの店だ。
その店がなくなってしまう事は、悟空にとって実に悔やまれる事であった。
「そんなわけですから、今までのようにここに食材を届ける事が出来なくなりそうです」
八戒が申し訳なさそうな声で悟空に告げた。
今までは八戒の店から数々の食材を回してもらっていた為、ある程度の料理をこしらえる事が出来たのだが。
政府から配給された食材だけではこの先作る事の可能な料理は限られてくる。

―――なんだか三蔵に悪いな。

悟空の心の中の呟きが聞こえたわけでもないだろうが。
「すみません、悟空」
八戒に謝られるのに大きく首を横に振る。
「八戒、何も悪くないんだから謝らないで。―――そうだね。八戒だっていつ赤紙が来て戦地に行くか分からないんだから、これからはのんびりした方がいいよね」
笑顔で悟空に言われるのに。
八戒の表情が、一瞬曇る。
そして。

「―――僕には、召集令状は来ません」

八戒に俯き加減で言われるのに悟空が顔を上げて碧眼を見つめた。
八戒の言わんとする事が理解出来ない。
困惑する悟空の表情を見届けて、ふっと一息付いてから八戒ゆっくりとした口調で語り出す。
「・・・・悟空、『丁種』って、知ってますか」
聞きなれない言葉に悟空は小さく首を振った。
そんな悟空の仕草が余りにも愛らしくて思わず破顔してしまう。
悟空の頭に手を乗せて、悟空にも分かり易いようにと意識して八戒は説明を始めた。
「男性は二十歳になると徴兵検査を受けます。それに合格した人は『乙種』、不合格だった人は『丁種』と呼ばれるんです。・・・・・僕、片目が見えないでしょう、そういうのは銃を撃つ時に凄く不利になるんだそうです。元来そう身体の丈夫な方でもないですしね。・・・・つまり僕は、その『丁種』なんです」
―――今の八戒の台詞で悟空はやっと理解した。
一緒に暮らしていた頃、近所の人が八戒のうわさ話をしていたのを聞いた事がある。
『あの若者は非国民だ』と―――。
その時には何故八戒がそんな事を言われなければならないのか、と不思議に思った悟空だったのだが。
そういう事だったのか、と悟空は今更のように納得したのだ。
それは、八戒にとっては不幸な事だったのかも知れないけれど。
悟空に取っては喜ばしい事と言えるのかも知れなかった。
「・・・・・そっか。じゃあ」
しばらく下を向いて考え込んでいた悟空がにっこり笑って言う。
「八戒にはずっと僕の側に居てもらえるね」
「・・・・そうですね」
悟空の笑顔と言葉に癒されたような気がして、八戒も笑顔を返した、その時だった。
ガチャッと玄関の開く音が悟空の耳に入ったのは。

―――三蔵だっ。

悟空が駆け出した。
「お帰りなさい」
いつもの笑顔に迎えられるのに。
煙草を口に咥えながら、玄関に並んだ靴を見て三蔵が問い掛けて来る。
「来てるのか」
「うん、さっき来たとこ」

そのまま悟空の右隣を三蔵がすっと通り過ぎる。
・・・・・嗅ぎ慣れた、煙草の匂い。
悟空はその残り香に小さく微笑む。





今日も一緒に居る事が出来た。
明日も、まだ大丈夫だよね。














八戒の店から一升瓶の酒を持って来た悟浄も合流し、宴会が始まった。
「おまえはこれだ」
三蔵から渡される日本茶に不服そうに悟空はふくれる。
「あ、僕、なんかつまみ作ります。台所、貸して下さい」
八戒が立ち上がる。
「あ、俺、枝豆ね」
悟浄が言うのに。
「んなもんあるわけねぇだろうが」
三蔵が返す。
「だいたいなんでてめぇまで来るんだよ」
三蔵が邪険に言えば。
悟浄が「あ?」と返して来る。
「八戒は戸籍上あいつの保護者だから心配で見に来るのは分かる。おまえは何の関係もねぇだろうが」
三蔵が不機嫌に言えば、悟浄が負けじと言い返して来るのだ。
「いいじゃないよ、俺、あの店に悟空が居た時からのファンなんだから」
「くだらねぇ」
「あ、男の焼もちはみっともないっしょ」
「―――殺すぞ」

そんな二人のじゃれあっているような会話を聞きながらころころと笑う悟空。
そんな悟空を見ながら微笑む八戒。
―――実に穏やかで平和な時間の経過が其処にはあった。

八戒がふと目の前に視線を移すと、仲良く並んだおそろいの二つの茶碗。
それは実に睦まじく寄り添うように置かれていて。

―――悟空、幸せそうですね。

八戒はこんな些細な幸せがいつまでも続くようにと、心の中で願わずにはいられなかった。