東南の空を小さく見える敵機が後方に火を点け、ゆっくりと墜落していく様が三蔵の目に止まる。
子供達がそれを見届けながらわあわあと歓喜の声を上げ、三蔵の横を通り過ぎる。
まだ十歳程と思われるこんなうちからすでに米兵は鬼畜だと叩き込まれているのだろう、それを見てパイロットの安否を気遣う者は誰一人としていない。
敵機が墜落した方向に向かい駆け出して行く子供達の姿を見送ってから三蔵は銭湯ののれんをくぐる。
脱衣所に入ったところで三蔵が見慣れた色彩に目を止めた。
細く見るからに柔らかそうな濡れそぼった茶色の髪。
少々伏し目がちに開けられたその金目。
大きめの白のシャツに腕を通しているが、細く華奢な白い脚は無防備に出されたままだ。
―――何やってんだ、あいつは。
三蔵が頭痛を僅かに覚えつつ辺りを見回せば、思ったとおり数人の男達が悟空を遠巻きに絡みつくようないやらしい視線を送っている。
早くシャツのボタンを留めズボンを履けばいいものを何やらぐずぐずとしている悟空を不思議に思うがその理由に気付いた。
―――右手に痛々しく巻かれた包帯。
店の手伝いでもしていて包丁で手を傷付けたのだろうか。
片手で懸命にボタンを穴に押し込めようとしているがこれがなかなか思う様にいかないらしく。
しばらくその様子を見守っていた三蔵が少々苛々し始めた悟空の表情に苦笑しながら近付いた。
『戦火』
「・・・・あ、さんぞ・・・・」
悟空もようやく己の存在に気付いた様だ。
三蔵の顔を視界に入れた途端、知り合いに出会い安心したようでにっこりと微笑んだ。
「手、どかせ」
掛けられた言葉は乱暴なものだったがシャツを掴んだその大きな手は実に優しげだった。
一つ一つ丁寧にボタンを掛けてくれる三蔵の繊細な手を悟空は嬉しそうに見つめている。
ボタンを掛けつつ悟空に尋ねて来たその声は実に低いものだったが、悟空はその声に安心感のようなものを得ている自分を不思議に感じていた。
「どうした、それは」
両手はボタンを掛けるのに空いていない為目線だけで悟空の右手を指す。
「包丁で切っちゃった。・・・・けっこう深くてまだ痛むんだ」
予想通りの返事を聞きつつよくこんなんで身体が洗えたもんだ、と少々感心しながらすべてのボタンを掛け終えた。
優しい温もりが、すっと悟空の前から離れて行く。
それに少々寂しさを感じつつ、悟空が静かに尋ねて来た。
「今日、お店に来る・・・・?」
棚の上に乗せられた籐籠を一つ取り自分の前に置きつつ三蔵が返事を返した。
「いや。今日はこれから夜勤だ」
「・・・・・そう」
まるで捨てられた子犬のような顔で俯かれ、呟いて来られる。
その切なささえ感じさせる表情に、三蔵が一瞬表情を変えた。
―――随分懐かれたもんだな。
表面的には明るく振舞っていても、親を亡くしたばかりで寂しいのかもしれない。
八戒は店が忙しくなる時間だからきっと構ってはやれないだろう。
そう考えた三蔵が、それでも照れ臭いのか悟空の顔を見る事なく告げた。
「明日は非番だから顔を出せるかもしれん」
三蔵のその一言に悟空の表情が瞬時に変わったのは当然の事だ。
「ほんと・・・・?絶対だよ!」
ズボンを履き桶と石鹸を小脇に抱えた悟空がぱっと花が咲いた様な笑顔を見せつつ脱衣所を後にする。
三蔵は羽織っていた上着を籐籠の中へ放り投げつつ、脱衣所を出て行く小さな背中を見送った。
「帰ったんじゃなかったのか」
三蔵が銭湯ののれんをくぐり外へ出るとすぐ金目に見つめられ思わず呟いた。
とっくに家路に付いたと思われた存在がまだそこに居た事に、正直驚かされる。
「これ。さっき、ボタンはめてくれたお礼」
悟空に差し出された物は清酒の小瓶。
それを眺めた三蔵は小さく息を吐き出しつつ悟空の頭をくしゃっと一度撫で付けた。
「・・・おまえ、それ、店からくすねて来たんだろう」
三蔵が銭湯に居た時間は二十分程。
その間に八戒の店を往復する時間は十分にある。
きっと店に戻って無断で持ち出して来たのだろうと、そう推測したのだ。
しかしそんな言い方は心外だと言わんばかりに悟空が抗議の声を上げて来た。
「ちゃんと断って持って来たよ。三蔵に渡すからって」
この時代、煙草や酒などの嗜好品は店などに並ぶ事はなく、政府からの特配での支給でのみ手に入れる事が出来る。
八戒が自分の店で酒を客に振舞えるのは先を見越して大量に卸問屋から仕入れておいたストックから出しているものであり、その在庫がなくなれば店でも客に酒を出す事は不可能になるだろう。
そんな大事な店の商品を幾ら店主に断ったからといって持って来ていいのかと、三蔵がそう告げるがそんな事はお構いなしに悟空は笑顔を返して小瓶を差し出して来る。
「これ、八戒がすごく美味しいって言ってたから」
差し出された小瓶に手を差し伸べた時、三蔵の手が悟空の手に瞬間触れた。
その冷たさに少しばかり驚く。
真冬のような寒さではないものの木枯らしの吹く日の落ちたこんな時間に、風呂上りの身体で歩き回っていたのだから冷えるのも当然で。
「・・・・・一緒に飲むか」
きょとんとした顔で悟空が顔を上げる。
「ただし、おまえはこれじゃねえ。熱い茶だ」
「―――うんっ」
にこにと心からの笑顔を見せる悟空と。
煙草を取り出し口に咥える三蔵と。
落ち掛けた太陽を背に二人が並んで歩いて行く姿はとても微笑ましく。
今、この国が戦火の真っ只中にあるという事を忘れさせるような光景だった。
三蔵の家の居間に入ってすぐ、悟空はきちんと正座しつつあたりをキョロキョロと見回した。
「男の一人暮らしの部屋がそんなに珍しいか」
ちゃぶ台に三蔵が茶の入った湯飲みをことん、と置きながら呟くのに悟空が首を振る。
「すごく片付いてるから、ちょっと驚いたんだ」
「そうでもないだろ」
答えつつ、自分は先程悟空に渡された清酒をグラスにあけ、一口飲んだ。
そんな三蔵に悟空が顔を覗き込んで聞いて来る。
「―――なんか簡単なつまみ作ろうか」
「作れるのか」
「八戒直伝だからね。冷蔵庫の中のもの、適当に借りていいかな?」
「ああ」
三蔵の許可をもらい立ち上がった悟空が台所に立ち冷蔵庫から適当なものを取り出して料理を始める。
トントン、と小気味いい音が台所に響いた。
三蔵はといえば眼鏡を掛けちゃぶ台の上の新聞を見始めた。
台所に立つ悟空の姿にちらりと視線を送ってまた新聞に視線を落す三蔵と。
時々後ろを振り返って三蔵がそこに居る事を確認して嬉しそうに微笑む悟空と。
実に穏やかな時間がそこに流れていた。
つまみはすぐに出来上がり、白い皿に乗せられたそれはにコトンとちゃぶ台の上に置かれた。
にんじんときゅうりと大根をあえて、醤油と酢とサラダ油でドレッシングのような物を作ってあえただけのものではあったが十分つまみになっている。
「いつでも嫁に行けるな」
新聞を片付けちゃぶ台の上に戻し眼鏡を外してから、三蔵に一口つまみを口にしてそんな事を少々からかいを含んだ声で言われるのに悟空が笑う。
「こんなの誰でも作れるよ。それに俺は男だよ」
―――そうだったな。
男のおまえの笑顔に見惚れるなんざ、どうかしてるな。
「・・・・さんぞ・・・・?」
しばらく沈黙した三蔵に悟空が「どうしたの?」と顔を覗き込んで来た。
大きな丸い金目に自分の姿が映りこんでいる。
ふわふわと揺れる茶色の髪。
―――とてつもない至近距離。
まるでそうする事が自然であるかのように、二人の唇が触れた。
一瞬、悟空が三蔵の肩を両手で押して拒もうとするがその瞬間に右手に痛みが走り抵抗する事を諦めざるを追えなかった。
「う・・・・ん・・・・」
長い口付けに翻弄されて悟空が根を上げた。
予想以上に艶っぽく感じられたその声に、唇を離した三蔵が小さく呟く。
「これから仕事なのを忘れそうだな」
小さく笑った三蔵に悟空が極上の笑顔を見せ抱き付いた。
「・・・・・三蔵、大好き」
―――そん時、思った。
こいつの為に生きたい。
一日でも長く、こいつの笑顔を見ていたい。
それが叶わない願いだと、分かっていても。
「で、なんだ。話っていうのは」
八戒の店で軽い食事を済ませた後、熱燗を口にしながら三蔵がカウンターの中にいる八戒に問い掛ける。
三蔵が店に入ってすぐに八戒に話があると言われたものの「食事が終わってから話します」と言われ少々気になっていた三蔵が自から話を切り出したのだ。
手拭いで手を拭きつつ八戒が少し離れたところにいる別の客に気を遣い、小声で告げて来る。
「―――貴方が良ければ、なんですけど・・・・・」
軽く目を伏せ、八戒が言葉を続けた。
「悟空と・・・・・、一緒に暮らしてやってくれませんか」
八戒の言葉に三蔵の手の動きが止まる。
しばらくの間二人はどちらから言葉を交わすでもなく、目線を合わせたままでそこにたたずんでいた。