花水木の花弁がひとひら。
悟空を好いたかのように、その手の平に落ちる。
淡い紫に限りなく近い桃色のそれは。
過去、確かに自分の近くに存在した大切な誰かの瞳を思い起こさせ。
悟空は一人、その懐かしさに触れながら。
―――結局それが誰なのか。
頭の片隅に残る記憶を懸命にたぐり寄せても分からぬまま。
奥歯を噛み締めて。
その苛立ちに耐えていた。



寺院に戻る事すら。
疎ましく思われる、そんな今の悟空には。
自然界のすべての存在が。
彼に対して優しく感じられた。



この空と。
この風と。
この大地が。
優しく包み込み何もかもを洗い流し、悟空の棘を一つ一つ抜いていく。











『―――此処へ戻っておいで。
此処には貴方を傷付けるものなど何もない。
貴方はこの大地より生まれし異端者だと言われるが。
此処ではそんなふうに貴方を愚弄する者など誰もいない。
・・・・・・・此処へ帰っておいで―――』




















『懐古』





















空に、大きくその手を伸ばす。
また降り注ぐのは、花水木の花びら。
一つ、一つ。
手の中に吸い込まれたそれを。
悟空は愛しげに見つめる。
こんなに苛立ちを募らせているというのに。
何故この花弁の色彩からこんなに愛しさを感じてしまうのか。
分かり切っているその答えに。
悟空は静寂の中に耳を澄ませた。



―――僅かに聞こえるその足音に。
悟空の神経が集中する。
背後に近付くその足音に。
悟空は振り向く事すら叶わずそこに立ち竦むしか出来なくて。
―――この足音の主が想い人であったなら。



・・・・・・・俺は、どうする・・・・・?
・・・・・・・俺は、何て言う・・・・・?



「―――悟空!」
右腕を強くその力で引っ張られるのと。
想い人とは明らかに違う穏やかな声音に驚かされ初めてその顔を見上げたのが同時で。
―――優しいその碧眼を見た瞬間に。
悟空の中で張り詰めていた糸が、音を立てて切れた。
八戒の腕を精一杯に掴んで。
悟空がその場に崩れ落ちながら必死に涙を堪えて呟く。
「・・・・・さんぞ・・・・・来てくれない・・・・・・」



寺院を飛び出した後。
何度後ろを振り返った事だろう。
追いかけて来てくれるなどとは期待してはいけない。
そんな事をする人じゃない。
分かってはいたのだけれど。



震えるその背中を何度なく擦りながら、悟空の表情に驚嘆する。
ここしばらく笑っている顔以外にはお目に掛かった事がなかったから。
悟浄のいつものからかいに怒りを露わにする事はあっても。
せいぜいその程度で。
悟空の泣き顔をこんなにもはっきりと見せられたのは―――おそらく初めてではなかろうか。
良くも悪くも悟空にこんな表情をさせられるのはこの世にただ一人しかなく。
―――何かあったのだろうと推測するのは容易だった。



懸命に堪えていたそれが、ぽとりと落ちて大地に染み込んでいく。
八戒がその涙よりも恐れたのは。
先程の悟空の姿。
空に大きく手を伸ばした時の、まるで吸い込まれて消えてしまいそうなその危うさに。
頭で考えるよりも先に行動に移っていた。
その腕をしっかりと掴んで。



―――この子は貴方には差し上げられない、と。



自然に対し意思表示をしてみせる。

三蔵の元に戻るのにはまだ心の整理が付いていない。
そう悟空の表情から悟った八戒が腰を屈ませて目線を悟空に合わせ、尋ねる。
「僕の家に来ますか」
涙に濡れた顔を上げて、碧眼を見つめた後で。
悟空がゆっくりと頷いた。



















部屋に入った途端、悟空の身体からふわっと落ちた花水木の花弁。
上着のフードの中に、それは数枚紛れ込んでいて。
床に落ちたそれを手に取って、八戒が呟いた。
「何だか似てますね、この色」
何に似ているのか。
主語の抜け落ちた言葉にも、悟空はその意味をきちんと理解していた。
八戒もおそらくその色彩から思い起こしたのだろう。



―――誰にも臆する事なく真正面を見据える。
あくまでも至高なその紫暗を。



ベッドの上に横たわった悟浄が悟空に尋ねながら紫煙を吐き出していく。
「で。喧嘩の原因、何よ」
いつそれを聞かれるのだろうと待ち構えていた悟空が顔を上げずに小さな声で言葉を紡ぐ。
「・・・・・大した事じゃないよ」



そう。
大した事ではない。
寺院の若い僧侶達とのいざこざなど今に始まった事ではなかったし。
取っ組み合いの喧嘩だって日常茶飯事。
いわれのない事で攻められ、心と身体の両方に傷を負ったのは、どちらかと言えば悟空の方。
三蔵だってそれを知っていたから、僧侶達との揉め事もいつもの事とそう気に留める筈もない―――と思われたのだが。



―――今日だけは違っていた。



まるで悟空側だけを成敗するような三蔵の厳しい物言いに。
つい悟空も我を忘れて憤慨してしまい。
『こんなとこ居たくない。・・・・・・出てく』
普段なら口が裂けても言わないであろう一言が漏れる。
それに対し三蔵の口からも至極辛らつな言葉が返される。



『誰が居てくれと頼んだ。二度と戻ってくるな』



思えば今日の三蔵は朝から機嫌が悪かった。
何が原因であるのかそれこそまったく思い付かなかったけれど。
普段なら寺院の他の者がどんなに冷たく当たっても三蔵だけは違うと。
いつ何時も自分を理解してくれていると。
そう自覚していたから何があってもいつも笑顔でいられたのに。
今日の三蔵の態度はさすがの悟空も痛かったようで。



「―――八戒」
八戒が淹れてくれたミルクティを一口流し込んで。
とりあえず身体を温めた後で。
心は冷え切ったまま悟空が告げる。
「二、三日、ここに泊らせて・・・・・」
今夜、ではなく、二、三日と言うそれに。
今回はかなり事情がこじれてしまっている事を匂わせて。



八戒と悟浄がお互いの顔を束の間見合わせた。
悟空がここに来ている事は多分三蔵も薄々気付いてはいるだろう、と同時に二人でそう思う。
悟空が寺院以外で足を運ぶ場所など限られていたから。



「ま、いいんじゃねぇの」
悟空が恋しくなって寺院に戻るか。
三蔵が待ちきれなくなって迎えに来るか。
どちらが先か、見物じゃないか、と悟浄が楽しそうに告げて来るのにも。
悟空は反応を示す事なくミルクティーを口にした。



痴話喧嘩、と一言で片付けられるものだった今までの喧嘩とはどうにも勝手が違うようで。
甘味が足りなかったのか悟空がソーサーに乗っている角砂糖を一つ、カップに落とすのを見届けつつ。
その不安定な視線と。
先程目前で見てしまった、自然と同化し消滅してしまうのではないかと思わせるほどの危うさに。
八戒は不安の色を隠せずにいた。














いつものベッドではない所為か。
それとも、やはり愛しい人の側ではないからか。
しばらく寝返りを打ち続けその居心地の悪さを訴えていた悟空だったが。
さすがに寺院を出てから行くあてもなく歩き続けた昼間の疲れが出たようで。
その動きが止まったと同時に健やかな寝息が聞こえて来た。
それを確認した八戒が悟空の眠りを妨げないように静かに部屋のドアを閉める。



別の部屋ではすでに悟浄が宴会を始めていて。
ドアを開け溜息を漏らしつつ入って来た八戒に。
「寝付きのいい悟空にしちゃ随分時間が掛かったじゃねぇの」
言いながら水割りの入ったグラスを手渡して来る。
ちゃんと眠ったかどうか見て来ます、と心配しきりに部屋を八戒が出て行って。
八戒にしろ三蔵にしろ、悟空に対しては過保護過ぎる嫌いがあると思いつつも。
八戒が行ったっきりなかなか部屋に戻って来ない現実に。
今回ばかりは過保護とは断言出来ないな、と。
悟浄もさすがに悟空の身を案じたようで。



「三蔵に迎えに来させた方が良くねぇか」
そんな言葉が自然と口をついて出る。
「僕としては、三蔵自ら来てくれるのを待ちたい気分なんですけど」
「来るかねぇ、あの意地っ張りが」
「―――来ますよ、必ず」



何を根拠にそこまで自信を持ってそう言えるのか、聞いてみたい気もしたけれど。
とりあえず乾杯だ、と悟浄がグラスを八戒のそれに軽く触れさせて。
グラス同士のぶつかる小さな音が部屋の中に静かに響いた。
一口水割りを流し込むと。
乾いた喉に冷たいその感触が通り過ぎていく心地よさにすでに酔わされながら。
八戒が悟浄に告げる。



「―――なんなら賭けましょうか」
何にしても賭け事好きな悟浄がそれに反対する筈などなくて。
「来ない方にハイライト向こう一ヶ月分」
いかにも悟浄らしいその提示に軽く笑みを施してから。
「じゃ、僕は来る方にジープの洗車向こう一ヶ月分」
それは八戒の提示の方がどう考えても難題だろうと。
口にしたかった悟浄だったが八戒の敵無しの笑顔には逆らう事など出来なくて。
「これって・・・・、有効期間今夜限定?」
そう確認を取ってみる。



頷く八戒に。
いくらなんでも今夜のうちに迎えに来る事はないだろうと。
勝ったも同然だと内心嬉々としていた悟浄だったが。
その判断は甘かったと。
すぐに思い知らされる事となる。