その日は朝から外回りで、悟空は忙しく都内をあちこち移動しなければならなくて。
あまりのの忙しさに思わず額に汗が浮かんでいるのに気が付いて、それをハンカチでゆっくりと拭った。
「えっと・・・・、最初は護国寺の会社からかな」
取引先の会社に書類を届けるだけの仕事だからそう難しいものでは無かったが、件数が多いので忙しない事この上ない。
さっさと回らなければ夜までかかってしまいそうだ。

・・・・こりゃ昼飯食ってる時間、無いかも・・・・。
それだけは絶対避けたいな。

何よりも食べる事が大好きな悟空にとってそれは死活問題で。
とにかく一番効率的な回り方を考えよう、と持ってきた路線図を広げる。
大きく広げた路線図のはるか向こう側に。
見慣れた金糸を見つけ、悟空が胸を高鳴らせた。

・・・・・・三蔵だ!

三蔵も悟空に気付いたようでこちらへ歩みを進めて来る。
近付いて来るにつれ、悟空の胸の高鳴りが増していくこの事実に困惑しつつ、自分の顔に無意識に笑みが浮かぶのをどうにも抑え切れなかった。
悟空の手にしている路線図に三蔵が視線を落としながら、その低くも何処か優しさを含んだ声を掛けられては、心拍数は上がる一方だ。
「会社の入り口に座り込んで何をやっている」
「うん、今日これだけ回らないといけないんだけど・・・・、どうすれば早く回れるかな」
悟空に手渡されたメモを見ながらこれはまた大量だな、と呟きつつも路線図を指差しながら悟空に丁寧に教えてくれる。
お互いに自分の気持ちをぶつけたあの夜以来、しばらくはつい話し方が喧嘩越しになっていた悟空だったが、最近では普通に会話が出来る様になってきて。

―――やっぱり三蔵って口は悪いけど優しいな。

三蔵の説明に耳を傾けながらその腕に掴りたい衝動にかられるのを必死で抑えて。
自分はやはりこの人が好きなんだ、と自覚させられる。









―――しかし、そんな悟空の想いを打ち砕くかのように。
「お待たせしちゃって・・・・」
幾分トーンの高い女性の声が背後から聞こえて、悟空が振り向く。
当然その声は悟空に向けられたものでは無く、その視線は三蔵に向けられている。
声だけではなく、その姿も美しい女性は長髪を揺らして三蔵の隣に付いた。

















『桜花』  10


















「あ、貴方が孫悟空君ね。彼から話は聞いてます」

―――彼。
そういとも簡単に呼ぶその声に、悟空は一瞬にしてすべての動きを止めた。



この人、もしかして・・・・。
―――三蔵の恋人・・・・?



揺れる三蔵の金糸。
それに似つかわしい明るめのオレンジブラウンの髪。
唇に塗られた口紅が太陽の光に照らされ、実に綺麗な輪郭を浮かび上がらせている。
二人が並んでいる姿を見て、悟空は思わず息を飲んだ。




・・・・似合いすぎだ。
悟空に勝ち目など、ある筈もない。
敗北感と焦燥感に打ちのめされて言葉も出ない。





「一度会ってみたかったのよ。思った通り、可愛い人。ねぇ、この人、事務所ではどんな感じ?相変わらずこんな不機嫌顔してる訳?」
その女性に言われるのにも返事を返す余裕も無く。
悟空はひたすらにそこに佇むことしか叶わない。
「おい。もうその辺にしとけ」
三蔵の声にその女性がごめんなさい、とほんの少し舌を出した。
「そろそろ行かないとまずいんじゃねぇか」
「ああ、そうでした。じゃ、孫君、またね」
三蔵とその彼女が連れ立って歩いて行き、車に二人で乗り込むのを悟空はじっと見つめていた。
彼女が通った後に残された香水の残り香。
それが、お互いの気持ちをぶつけ合った翌日の朝に三蔵の背広から香った匂いと同じである事に気付くのに、そう時間は掛からなかった。
胸の痛みに悟空が囚われたのは当然の事で。
涙を抑えるのに苦労しつつ、これ以上二人を見るのは辛すぎるとその場を走り去る。

そんな悟空を運転席に座った三蔵が見つめていた事には、全く気付かぬままで。
「・・・・いいの?あの子、私の事、完全に誤解してるわよ」
助手席に深く腰掛け、何やら相当に厚い書類に目を通しながら先程の女性が囁いた。
その言葉には答えずに三蔵が煙草に火を点ける。
「・・・しっかし、ちょっとがっかりだな。孫君、全然私の事知らないみたいね。同じ会社で働いてるっていうのに」
「フロアが違うんだ。あいつは社員でもないし、知ってる方が不思議だろ」
「あら、私の方は知ってたわよ、入社して間もない頃から。玄奘君が彼に対してすっごく優しいから、同期としてはやっぱり気になるもの」
ちらっと三蔵を見やってから同期だと言うその女性が思い付いた様に続けた台詞は。
運転席に座る男の眉間に皺を寄らせてしまう原因になっようだ。
「・・・・あ、もしかして、この間一緒に飲みに行った時玄奘君めちゃくちゃ酔っ払って朝帰りしたの、あの子の所為?」
その女性が如何にも興味深々に聞いて来られても顔色一つ変えずに煙草に火を点ける事に集中し、答える必要などないだろう、と言わんばかりの視線を送られた。
「くだらねぇ事言ってねぇで行くぞ。―――最初はどこからだ」
返事を貰えなかった事に少々不満を感じながらも、やはり最優先事項は仕事であったから。
書類に女性がもう一度視線を移して、三蔵の問いに答える。
「じゃあ、西部商事から。初の同行なんで、足でまといになるかも知れませんがよろしくお願いします、主任さん」
そう言った彼女の笑顔を見やってから、三蔵はアクセルを吹かし都心の街中に車を走らせた。