「―――あのね、三蔵」
最後にフロアに残っていた社員が「お先に失礼します」と出て行ったところで。
それを待ちかねたように悟空が声を掛けて来る。
悟浄は外出したままいまだ戻らず、他の社員達もそのまま直帰だったりすでに退社していたりでここに居るのは三蔵と悟空だけで。
眼鏡を掛けノートパソコンに向かっていた三蔵に、「何だ」と眼鏡の奥の紫暗はパソコンに向かったままで返される。
「俺・・・・結婚延期されちゃった」
「あ?」
てっきり仕事の話だろうと思い込んでいた三蔵が不意を食らって、無意識に返した返事は少々気が抜けたもので。
上を向いた瞬間に眼鏡が僅かに下にずれ、上目遣いに三蔵に見られるのに悟空がほんの少し俯き加減になる。
そんな悟空の仕草を見届けながら、三蔵が椅子の背にゆっくりともたれ掛かった。
「この間、連休あったでしょ。あの時、金蝉に会いに行ったんだ。三蔵の言った通り、自分の気持ちぶつけてみた」
「・・・・・それで」
話が長くなりそうだ、と判断した三蔵が眼鏡を外しパタン、とノートパソコンを閉じた。
話を聞いてやろうという姿勢の目の前の人に感謝の意味を込めて微笑んでから。
「俺、金蝉に『他に好きな奴がいるんじゃないか』って言われた。それに気付いたから、わざと会わない様にしてたって。『そいつとの間で気持ちが揺れてる間は結婚なんか出来ない』って」
言いながら悟空が手にしていたボールペンを器用に手の中で転がして遊び始めた。
そのままボールペンから視線を外さずしばらく沈黙してから。
「―――図星なんだ、それ」
悟空が俯いた顔を上げて三蔵に向かいそう囁いて来た。
金目と紫暗の瞳が一瞬交わるが、すぐに紫暗がそらされる。
「で、その他に好きな奴ってのは誰だ」
「分かんない?」
「分からねぇな」
本当に分からずにそう言っているのか故意にそう言っているのか、悟空にはよく分からなかったが。
ソフトケースから取り出した煙草を口に咥え火を点ける三蔵を見届けてから。
悟空の口から発せられた言葉は決定打だ。
「・・・・・三蔵に決まってんじゃん」
『桜花』 8
悟空の言葉に驚きもせずふうっと溜息を付くあたり、やはり予想は付いていたのか。
次にどんな言葉が返って来るかと胸を高らせつつ待っていた悟空に向けられた言葉はこんな言葉だった。
「おまえ、バイト辞めろ」
「・・・・へっ?」
意外なんてものでは無い言葉を返された悟空が呆けた顔で三蔵の顔を見つめた。
見つめられた方はあまりの間抜けな顔に少々気が抜けたが、悟空が真面目に話しているのだからこっちも付き合ってやろうと言わんばかりに真摯な顔で言葉を返す。
「婚約者と一緒に居るよりも俺と居る時間の方が長いからそんなふうに思うだけだろうが」
そう三蔵に言われ悟空の金目に薄い膜が張られるのを三蔵が気付いて僅かに眉を顰めた。
―――そういう顔すんじゃねぇよ。
婚約者と俺との間で気持ちが揺れてるなんて言われて、平常心で居られないのはこっちの方なんだよ。
彼らしからぬ切羽詰まった思いを抱えながら。
それは心の中だけに留めておいたまま。
三蔵らしいといえば三蔵らしい物言いで悟空に告げる。
「とにかく、俺と少し距離置いて頭冷やせ。しばらく俺と会わなきゃ金蝉の事だけ見られる様になるんじゃねぇか」
そう言い捨てると三蔵は立ち上がりデスクの後ろ側にある窓の側に立ち、外を見つめつつ紫煙を吐き出した。
「俺・・・・嫌だよ。バイト辞めない」
悟空の拗ねた様な口調に三蔵が苦笑する。
空には厚い雲が立ち込めており、今にも泣き出しそうな空模様で。
風も昼間より強く吹き始め、嵐の始まりそうな空気に思わず三蔵の表情が曇る。
こちらにも嵐の吹き荒れそうな予感を感じながら。
気付かぬうちに背後に立った悟空に上着の裾を引っ張られ、三蔵がゆっくりと横に佇む悟空の顔を見下ろした。
「俺、三蔵の側に居ちゃ、ダメかな・・・・?」
・・・・ったく、こいつは。
うな垂れて悟空に言われるのに三蔵がその腕を掴んで自分のデスクの上に押し倒した。
デスクの上の書類がパサパサッと音を立てて床に落ちる。
「・・・・さ・・・・んぞ・・・・?」
突然の三蔵の行動に理解しかねた悟空が押さえ込まれた両手に力を込め、なんとか逃れようとしつつ三蔵の紫暗を見つめるが、その瞳には隙が無く。
「距離を置くのが嫌なら―――俺のものになるか」
「・・・・・!」
悟空の金目が見開いた。
予想外の三蔵の行動にどう抵抗したらいいのか。
頭が混乱し次の行動に移れない。
三蔵の両手がしっかりと悟空を押さえ込んで起き上がろうにもそれは叶う筈もなく。
悟空の柔らかな唇を塞いだのは三蔵の唇。
ゆっくりと味わうように蠢く舌の動きに悟空は身体を強張らせた。
やっと唇を解放されたかと思えば、その熱い唇が今度は首筋に下りてくる。
「さんぞ・・・・・、やだっ!」
悟空の口から強気の拒絶の言葉が出た。
それを待っていたかの様にゆっくりと上体を起こしながら、告げられた低い声。
「―――・・・・・婚約、解消出来るか」
一瞬の、沈黙。
そんな三蔵の言葉に悟空は返事を返す事もできずにただ紫暗の瞳が心無しか寂しそうに揺れるのを見つめるだけ。
「―――出来ねぇだろうが」
静かな口調ながらその物言いには三蔵の深い思いが込められている様で。
その言葉を肯定するべく悟空が無言で悲しげな表情を見せるのに三蔵が悟空の両手を解放し、立ち上がった。
「婚約者の態度にあんなに激しく浮き沈みしてただろうが。・・・・おまえは金蝉が好きなんだよ」
煙草の煙を吐き出して落ち着いた声で言われてしまっては、もう何も言い返せなくて。
「俺・・・・」
小さく呟いてみたものの次の言葉を続けられずにとうとう涙を流した悟空に溜息を付きつつ三蔵が椅子に腰掛けた。
ギィ、と椅子のきしむ音が静かなフロアに響き渡る。
しばらく言葉を交わさずにそこに居た二人の沈黙を破ったのは悟浄だ。
バタン、と事務所のドアが開かれフロアに入って来た悟浄は、二人の間に流れる不穏な空気を瞬間に読み取る。外見からは想像も付かないがこういった空気には敏感な男だ。
その場の雰囲気を和ませるべく故意に明るい声で悟空に話し掛けた。
「あれぇ、悟空、まだ居んの。バイトなのに随分仕事熱心じゃねぇの」
そう言いつつ悟空に近付きその肩に腕を乗せるが、涙を流している悟空に驚いて三蔵の顔を見やる。
その心無しか険しい表情に「ただ事じゃねぇな」と直感しつつ。
「おうい、三蔵。悟空ちゃん、苛めちゃダメでしょうがぁ」
「よしよし、泣くんじゃねぇぞ」と頭をくしゃくとしゃ、と撫でられて、「ガキ扱いすんなよ」と言った側から悟空が次から次へと涙を零す様を見て。
三蔵は額を軽く手で押さえた。
外はやはり雨が降り出して。
悟空と悟浄は二人で連れ立って事務所を出て行った。
「悟空、ほっとけないから家へ連れてくわ」と一言言い残して。
その視線が「泣かしてんじゃねぇよ」と言わんばかりの厳しい物だった事に三蔵は一人残った事務所で苦笑いを施す。
しばし窓の外を見つめ感慨にふけった後で。
強く降り付ける雨の音を聞きながら三蔵はまたノートパソコンを開き、眼鏡を掛け仕事を始めた。
翌日の朝は、清清しい程に良く晴れ渡った、いい朝だった。
三蔵自身も、こんな天気なら事務所での仕事は一切取りやめて今日は外勤一本に絞ろうかとそう思わせる程。
しかし、そんな滅多にない気分の良く迎えた朝が終わりを告げいつもの不機嫌顔へと戻らされたのは、思いの他早かった。
その原因。
出勤してきた悟空と事務所内ですれ違ったから。
納得の行かない三蔵が、その声を低くする。
「もう辞めろと言った筈だが」
「・・・・辞めないって言った筈だよ」
強気の声で言い返して来る割に金目が赤く腫れているのに気付き、昨夜はあまり寝ていない事に気付かされる。
虚勢を張っているのが見え見えの悟空に溜息を付きつつその横を通り過ぎようとした、刹那。
三蔵とすれ違った瞬間に、悟空の方が三蔵のいつもとの違いに気付かされる。
―――香水・・・・・?
すっごくいい匂い。
普段、三蔵、香水なんか付けないのに・・・・。
そう気が付いてよくよく見てみれば。
背広はかろうじて昨日とは違うものだったが、中に着用していた薄い水色のワイシャツも、ストライブのネクタイも。
すべて昨日と同じ物を身に着けている。
背広は多分、会社のロッカーに大抵二、三着は替え用の服が置いてあるからそれを着たのだろうと思われる。
その事実が、昨夜は家に帰っていない事を暗に裏付けていた。
「・・・おやま。ネクタイ昨日と同じですねぇ。なんかいい匂いもして来るし。女のとこから朝帰り?」
擦れ違い様に掛けられた悟浄の一言に。
悟空が身体をぴくっと振るわせた。
―――女性と会って、朝帰り。
そんな事をされても自分には、もう何も言う権利などないのだと、思い知らされる。
『婚約解消出来るか』と尋ねられて、YESと言えなかった自分には、もうどうする事も叶わない。
自分のようにどっちつかずではなく、三蔵の事だけを想ってくれる人との幸せを、自分は願うべきだ。
そう心に言い聞かせた。
「ああ、そういやぁ」
真紅の髪をかき上げつつ、三蔵の肩にその右腕を乗せて耳打ちする様に囁かれた言葉に思わず舌打ちが出る。
「昨日、八戒も家に来たんだわ。『悟空を泣かせるなんて許せませんね』って少々お怒りの様でしたから電話でも掛かってくるかも知れねぇな。ま、嫌味言われんのは覚悟しとけや」
肩に乗った悟浄の手を押しのけつつ苦々しい顔になったのは当然の事。
実際のところは電話どころか本人がやって来て直接嫌味を言われる羽目になるのだが―――。