三蔵のマンションに来たのは久しぶりだった。
ドアの前に立ちチャイムを二回鳴らす。
しばらく待ってみたが応答は無い。
―――三蔵、大丈夫ですかね。まさかすでに手遅れって事は無いですよね。
少々不安に駆られ試しにドアノブを回してみる。
簡単に、そのドアはキィ、と小さな音を立てて開いてしまった。
それをゆっくりと開け、中を伺う。
物音一つ聞こえて来ない。
静寂な空間がそこにはあった。
誰もいない・・・・という事は無さそうである。
何故なら、下を見るときちんと並べられた三蔵の黒の革靴と、横に並んだ三蔵のそれより一回り小さい青のスニーカーが置かれてあったから。
この青のスニーカーには見覚えがあった。
「悟空、まだ居るんですか」
体調の悪い三蔵が眠っているかもしれない。
そう思い八戒は小声でそう尋ねてみた。
しかし、返事は返って来ない。
『桜花』 5
病院の勤務が終了した後八戒が自宅でくつろいでいるところへ、悟浄が会社から電話をよこして来た。
『珍しく三蔵がダウンだ。今日は定時に帰らせた。あの状態じゃあ高熱出してると思うから、何かいい薬があったら持ってってやって。ああ、それから悟空が心配して見舞いに行くとか言ってたから、あっちで会うかも知れねぇな』
定時に帰ってしまった三蔵の分の仕事も手掛けている様で、それだけ言うと慌しく電話は切れた。
三蔵がダウンするなど知り合ってから初めての事で、途中で病院に寄り薬を用意した八戒は急いでここへやって来たわけで。
急いでリビングを抜け、八戒は奥の部屋へと向かった。
寝室は何処か、とそれを探す。
三蔵の家に来た事は一度や二度ではなかったが、寝室などというものには普段まったく縁がなかったからそれが何処か分からない。
ふっと前方に目をやると最奥の部屋のドアの隙間から明かりが漏れているのを確認した。
そこに三蔵と悟空が居ると判断した八戒は一応声を掛けた上で、そっとドアを開けてみた。
「―――三蔵・・・・?悟空・・・・?」
枕元のスタンドのみが付くその部屋には、ベッドの上で仰向けで深い眠りに付いている三蔵と、その足元には床に座り込みながらベッドを枕にしてこちらもすっかり寝入っている悟空のあどけない顔があった。
サイドテーブルの上には、手の付けられていないカットされたりんごと、こちらもほとんど減っていないおかゆ、水を汲んだ洗面器と電子体温計。
三蔵の額には乗せられた直後には冷たかったであろうタオル、頭の下には水枕が当てられていた。
これを見ただけでも悟空がどんなに甲斐甲斐しく三蔵の世話をしていたかが想像出来て、八戒はなんともいえず微笑ましい気持ちにさせられたものだった。
とりあえずタオルを取り除いて三蔵の額に手を当て熱の高さを確認する。
この辺りで八戒はすっかり医者の顔になっていた。
心配された状況には陥っていないようだ。
熱のピークは超えたようである。
ついでに喉も診たいところだが、無理矢理口開けさせるわけにもいかず。
仕方なく外側から扁桃腺の辺りに触れてみる。
少し腫れている感触があった。
すっかり温かくなってしまったタオルを洗面器の中で一度濡らして絞ってから額の上に乗せる。
まぁ、この程度まで落ち着けば、後は薬飲んでぐっすり眠れば治るでしょう。
そこまで確認したところで八戒がふと気が付いて悟空に視線を移した。
三蔵の方は暖かな布団が掛けられているからいいとしても、悟空の方は上着も何も掛けていない状態だ。
悟空まで風邪をひいたら大変と辺りを見回し掛けられそうなものを探すがこれといったものが無かったので、八戒は自分の上着を脱いで悟空に掛けてやった。
その後、病状に合わせて処方しようと数種類持って来た薬の中から二種類の薬を出し、メモに数行書き留めて薬とともにサイドテーブルの上に置いた。
解熱剤と、最近うちの病院で扱い始めた
新薬の抗生物質です。
両方とも良く効きますよ。
解熱剤の方は三十八度を超えた時。
抗生物質の方は一日三回食後三十分以内
に飲んでください。
ちゃんと飲まなきゃダメですよ。
サイドテーブルの上にあったライターをメモが飛ばない様重しにし、八戒はもう一度三蔵と悟空をちらっと見やる。
熟睡中なのだからお互いの存在を意識しているわけでもないだろうが、二人の安心しきった寝顔を見ているとどうにもやり切れない思いにかられる八戒ではあったのだが。
―――どっから見ても恋人同士じゃないですか。
何とかなりませんかねぇ・・・・。
部屋のドアを静かに閉め、部屋から出た八戒はノブに手を掛けたままで深い溜息を付いた。
―――三蔵の熱は上がるのも早かったが、下がるのも早かったようで。
相変わらず電話のベルやら人の話し声やらで賑やかな事この上ないこのフロアの中。
風邪もすっかり回復し溜まった書類の処理と、次々にやって来る得意客との商談に追われながら不機嫌な顔を隠す事無くそれをこなしていく三蔵と。
やたら機嫌良く満面の笑みを浮かべて仕事をこなす悟空の姿がそこにはあった。
何やら鼻歌も口ずさんでいるらしい。
―――あのバカ。
朝から何浮かれてやがる。
書類に目を通す振りをしつつ実はその上機嫌な姿を盗み見て眉根を顰めていたわけで。
客が途切れ一息付いたところで三蔵が近くを通り掛かった悟浄に尋ねてみた。
「おい。奴のあの無駄なハイティションはなんなんだ」
「ぁあ?」
言われて悟浄が悟空の姿を目で追うと確かに無駄に元気のいい悟空が、客との電話に大声を上げて笑っていた。
「あー、あれね・・・・」
三蔵のデスクに両手を掛けた悟浄から出された答え。
その内容は、三蔵の予想通りのものではあった。
婚約者が地方勤務に赴いている所為でそう頻繁に会う事が出来ずに淋しい思いを抱えている悟空があれだけ上機嫌になるという事は。
きっと、婚約者がらみで何かいい事でもあったのだろうと容易に予測が出来たから。
「昨日、金蝉とデートだったんだと。奴は今朝の飛行機でもう帰っちまったらしいけど。あれだけニコニコしてるって事はよっぽど楽しかったんじゃねぇの」
やはりな、と思いつつも特に表情を変える事なくその台詞を聞いている三蔵に、悟浄は身を乗り出して囁いた。
「妬ける・・・・?」
あからさまにからかい口調で言われているのに気付いたから、書類に目線を移しつつ言い捨てる。
「くだらねぇ事言ってねぇで仕事しろ。おまえ、例の企画書、まだ未提出だろ。さっさと仕上げて持って来い」
「呼び止めたのはおまえじゃねぇかよ、ったく・・・・。あ、そうだ。三蔵、今度の金曜の夜、空いてねぇ?」
「ねぇな。おまえの為に時間を空けるなんざ真っ平ごめんだ」
こんな三蔵の物言いはいつもの事だったから、もうすっかり免疫が出来てしまっているようだ。
鋭い視線を投げられても悟浄は怯まず身体をくねらせて抜け抜けと懲りずに三蔵をからかってくる。
「いやん。そんなふうに言うと悟浄拗ねちゃう」
「―――てめぇ、死にてぇか」
背広の内ポケットに手を入れる三蔵に何が出て来るのか予想が付いた悟浄は、それ以上三蔵をからかう事をあきらめ真面目な顔付きで告げた。
「八戒んちで久しぶりに飲もうやって事になったんよ。ま、仕事が早めにけり付いたら顔出せや。・・・・悟空にも声掛けといたから」
それだけ言うと右手を横に振りながら悟浄はスタスタと自分のデスクに戻っていく。
その姿を見送った後で。
相変わらずのハイティション状態を保ったままの悟空の姿を視界に留め、三蔵は煙草をソフトケースから取り出した。
そこでふと、八戒の上着がクローゼットの中に入ったままだった事を思い出す。
―――あれを返さなきゃならんな。
煙草に火を付け煙をくゆらせつつ。
また未処理書類に目を通し始めながらも金曜日の夜のスケジュールを頭に思い浮かべ、月曜日に持ち込んでも支障の無い予定があるかどうか、思案を巡らせていた。