「おい、しっかりしろ、・・・・悟空!」
三蔵がテーブルに顔を埋めて動こうとしない悟空の肩を揺らすが、返事はするものの立ち上がる気配は無い。
「悟浄、こいつはいつもこの程度の酒でこんなに酔っ払うのか!」
少し離れたテーブルに居る悟浄に珍しく大声で尋ねてみるが。しかし、返事は無く。
代わりに他の社員の声が返って来た。
「主任、ダメです、チーフ、酔って寝てます」
「・・・・ぁあ?」
不機嫌に返事をしつつ悟浄を見やればソファの上で熟睡しつつの高いびきだ。
そんな悟浄の様子を視界の端に入れながら三蔵が深く吐いた溜息は、店内に渦巻いている煙草の煙に掻き消されていった。



















『桜花 3』















時間の経過とともに酔っ払いが増加して悟空の歓迎会もそろそろ続行不可能か、とお開きにすれば。
つい先ほどまで『悟空は俺が送り届ける』とさんざん公言していた本人がこの泥酔状態だ。
忌々しい舌打ちが三蔵から出るのは無理のない話だろう。
八戒が悟浄の稀に見る泥酔状態に驚きを隠せず眼鏡の奥の瞳を丸くさせたのも無理のない話。
「あれ?珍しいですね。悟浄が寝こんじゃうなんて。最近忙しそうだったから、疲れで酒の回りが早かったんでしょうか。・・・・しかし困りましたねぇ。僕、これから夜勤なんですよ」
「―――夜勤っておまえ」
これから仕事だ、という八戒に三蔵の方が今度は驚かされ紫暗を細め、空になった八戒のグラスを見て呟くのに思わず笑みが出た。
「ああ、これウーロン茶ですよ。分かりませんでした?いつものって言うと僕の場合はこれが出て来るんです。もちろん、夜勤の無い時はお酒を注文しますよ」
にこやかに八戒に言われ三蔵が眉を顰める。
そう言われてみれば八戒の周囲からは微かなアルコールの匂いも漂ってくる事はなかった。
バーテンダーも心得たものである。
「・・・・で、三蔵、悟空、お願い出来ます?家まで送ってやって下さい」
「冗談じゃねぇ、何で俺が」
とんでもない展開になって来たと悟空の肩を揺すりもう一度起こそうと試みるが、やはりうーん、と唸るだけで目を開けようとはしなかった。
「主任。悟空、こっちのテーブルでチャンポンしてますよ。ビールに水割り・・・・、あ、チューハイも飲んでる」
社員が少し離れた場所から驚きの声で告げて来るのに、三蔵が顔を顰める。

―――バカが。
飲みなれてねぇくせに勧められるままに飲む奴があるか。

溜息を付きつつ呆れた顔で悟空の顔を見やるが本人はいたって気持ち良さそうに寝込んでいて。
無邪気な顔で深い眠りに堕ちているその表情に呆れながらも。
こんなに泥酔した状態では肩を揺すろうが頬を打とうがまず目を覚ます事はないだろうとそれを諦めた。
「主任!俺達チーフ、家に送って来ますから。その後いつもの店行ってますんで。後から来て下さい」
と社員の一人が大声で叫びながら悟浄の腕を肩に乗せる。
もう一人の社員が悟浄の上着とカバンを持ち、3人でさっさと店を退出していこうとしているその姿に驚かされる。悟空を顎で指し示しながら尋ねてみた。
「おい、こいつはどうするんだ」
「チーフと孫の家、思いっきり逆方向なんですよ。他の奴、もういつもの店行っちゃってて俺達しか残ってないし・・・、主任、お願いできますか」
申し訳なさそうに答える社員の声も、大柄で重みのある悟浄の身体を支えるのに必死で僅かに掠れている。
ちっと舌打ちしつつもこの状況下では仕方ねぇか、と観念した様で悟空の腕を肩に乗せ立ち上がった。
―――なんでこんなに軽いんだ、と。
苦労する事無くなんなく持ち上がってしまった悟空に少々驚かされる。
頭をうなだれてうーん、と唸りながら何とか悟空も三蔵と一緒に立ち上がった。
柔らかな悟空の髪が三蔵の顎を掠める。
その感触に思わず目を細め、酒のせいであどけなくも頬を紅く染めている悟空の表情を盗み見た。

「はい、これ。悟空の家の地図です。ここからそう遠くありませんから。よろしくお願いしますね」
八戒にコースターの裏に書かれた地図を渡され、三蔵はそれを眺めつつ怪訝な声音で呟いた。
「随分用意周到だな。それに何故おまえがが悟空の家を知っている」
「この間、悟浄とたまたま悟空の家の前を通ったんです。その時、教えてもらったんですよ」
―――最初から自分に送らせる気だったのではなかろうか、と。
そんな疑いすら持ってしまう、今この場で書いた感じのまったく無い、丁寧に書かれた地図。
そんな三蔵の思惑には気付いていないのか、それとも気付かぬふりをしているのか。
八戒が上着に腕を通した後で腕時計を確認しつつ三蔵に「僕達も行きましょう」と促して来る。
「僕もそろそろここを出ないと遅刻しますから。・・・・・さっき、社員さんが携帯でタクシー呼んでくれてましたからもうすぐ来ると思いますよ」

八戒が悟空と三蔵の上着とカバンを持ち外へ出るのに三蔵も悟空を引っ張りつつ後に続いた。
店のドアを開けると、外の冷気が酒の入った身体をほど良く冷やしてくれる。
どこからともなく飛んで来た桜の花びらを手に受け止めてから。
「春とは言っても夜はまだ少し冷えますね。・・・・今夜は花冷えといったところですか」
八戒が夜空の星を見上げて呟く。
三蔵も星空を見上げた。

以前、こんなふうに星を見上げたのはいつだったか。
思い出せない位遠い話だった。
その位三蔵は日々忙しかったし、空を見上げる余裕など無い様に思われた。
社長の甥であるというプレッシャーは、やはり本人の意思などお構い無しに付いて回る。
それを跳ね除けるべく日々戦ってきた。





―――たまにはこんなふうに空見上げるのも悪くないのかも知れない。

初めて出会った時桜を見上げていた悟空の様に―――。





























タクシーで走る事二十分足らずで悟空の住むマンションに着いた。
道が空いていた所為で、三蔵が思っていたよりも早い到着だ。
エレベーターを降り、三階の一室のドアを悟空から渡された鍵で開け、三蔵は玄関に入った。
悟空は相変わらず俯いたままで三蔵に肩を預けている。
「靴位、自分で脱げるだろう」
三蔵に言われ靴を脱ぎ、玄関に上がった悟空の身体が一瞬揺らめいた。
意識はかろうじてある様だが足元がおぼつかないらしい。

―――しばらく禁酒だ、てめぇは。
自分の限界ってもんを一度きちんと知る必要があるな。

倒れそうになった悟空の腰を抱きとめると、三蔵は深く溜息を付く。
玄関から廊下に上がり、何気なく周囲を見渡してみれば。
一人で暮らすのには十分過ぎる程の広さ。
バイトの身でありながらよくこんなところに住めるものだ、と三蔵が感心しつつ廊下を突き進んで行く。
その後、短い廊下を歩いて行くと右と左に二つドアがあるのを確認した三蔵が悟空に尋ねた。
「寝室は。右か、左か」
「・・・左・・・・」
悟空の微かな返事を聞き取り三蔵はその部屋のドアを開け、足元の覚束ない悟空をベッドの近くまで運ぶのに取り合えず肩を貸してやり。
己の肩に乗った悟空の腕を外し、腰をかがめてそっとベッドに落とした。
「二度と手間かけさせんじゃねぇぞ」
三蔵がそう言いながら起き上がろうとした瞬間。
悟空の腕が三蔵の首に回った。
驚いたのは、ここから後の悟空の行動。
三蔵の唇に軽く触れたそれは、紛れもない、悟空の唇だ。

―――ほんの僅か数秒の出来事。

何が起こったのか理解できずに三蔵が一瞬身体を強張らせた。
柔らかな悟空の唇がすうっと離れていく。
金目をうっすらと開けて三蔵の紫暗の瞳を愛しそうに見つめる悟空に、口の端を僅かに上げた。
「この酔っ払いが。誰と間違えてやがる」
そんな言葉も悟空の耳には聞こえては来ないようで。
三蔵の頬に右手で触れながら悟空が囁く。
「・・・・・好き・・・・・」
その言葉に瞬間目を見張った三蔵だったが、その言葉は自分を通して違う相手に掛けられた言葉であると理解していたから。
悟空の手を振り解きかがめていた腰を起き上がらせて言い放つ。
「いい加減にしろ。相手が違うだろうが」
三蔵が上着の袖に手を通し、カバンを脇に挟んで部屋のドアに手を掛けるのを見届けて。
その瞬間に囁かれたその声は、後ろ髪を引かれる程、切なげだった。
「・・・・行かないで。ここにいて・・・・」
酔っているせいか甘い声で言われるのに三蔵の手が瞬間止まる。

・・・・・ったく。
こんな状況下でそんな台詞を口にするとはいい度胸だ。
誘ってるようなもんじゃねぇか。

心の中でそう呟きつつも、しかし、振り返って告げたのはこんな言葉で。
「そういう台詞は愛しい奴に言ってやれとこの間言った筈だが」
半分だけドアを開け背中を向けたままの三蔵が続けざま悟空に告げて来る。
その言葉を口にした時の彼の表情は、すでに普段会社で見受けられるような上司の顔に戻っていた。
「いいか、明日の朝はきちんと会社へ来い。二日酔いで遅刻なんて許さんからな」
パタン、とドアが閉まり三蔵の姿はすでにそこにはない。
続いて玄関のドアが重い音を立てて閉まるのを、悟空はいまだはっきりしない意識の中で聞いていた。
「―――行っちゃった・・・・・」
誰に言うでも無く静かに悟空が口にした言葉は宙に漂うだけで。
そして悟空の金目がそっと閉じられ、間もなく。
ほど良い疲労感とともに、深い眠りに落ちていった。








外へ出た瞬間に触れた春まだ浅い冷えた風に髪を揺らしつつ。
三蔵はすぐさま煙草を咥え、その先端に火を点した。
目の前の大通りを走る車の流れをしばし眺めつつ、時たま零れ落ちる灰に視線を移しながら。

―――行かないで。ここにいて・・・・。

あんなふうに言われるとけっこう切ないもんだ、とそんな事を考えて。

そこでふと頭に浮かんで来たのは悟空に口付けされた時の情景。
意識せずとも苦笑が漏れた。

―――ま、悪くは無かったがな。

短くなった、煙草を足で踏み潰した後。
三蔵は部下達の待つ次の店へ行く為タクシーを止めた。