初夏を告げる少々生暖かい風が皮膚に触れて、いつの間にか季節が夏に変わっていた事に気付かされる。
悟空と桜を見上げたのが、つい昨日の事の様に鮮明に記憶に残っているのに思わず苦笑する。
マンションの入り口を抜け、エレベーターに乗り煙草を咥え火を点ける。
自宅のある五階で降りフロアの角を曲がったところで三蔵の靴の音が途切れた。
自宅のドアの前で見覚えのある小柄な人物が座り込んでいるのが目に入ったからだ。
思わず煙草を落とし掛けながら、三蔵はその名を呼んだ。
「―――悟空」
ぴくっと身体を震わせて上げられたその顔はまさしく悟空そのものだ。


















『桜花 11』


















「いつからここに居た」
「うーんと。一時間半位前・・・・かな」
「帰って来なかったらどうするつもりだった」
「―――待ってたと思う。ずっと・・・・」








少し寂しげに笑顔を見せられるのに三蔵は溜息を付きながら片手を悟空に差し出した。
ずっと同じ体勢で居た為膝に僅かに痛みを感じつつ、三蔵の手を取り悟空が立ち上がった。
そのまま抱き付いてしまい衝動は、何とか押さえ込んで。
三蔵に促されるまま玄関に入り、リビングに足を踏み入れた。
悟空をソファに座らせると自分も向かい側のソファに座り上着を脱ぎネクタイを解き、ワイシャツの第二ボタンまでを外した。
開放感を思う存分味わった後で、出たものは深い溜息。

だいたいの予想は付いていた。
―――今朝の、あの女性のことが気になってここまで来たのだろうと。

三蔵が新しい煙草に火を点けるのを見届けてから、やはり悟空が切り出して来た。
「朝会ったあの人・・・・、三蔵の恋人・・・・?」
「・・・・・そうだ」
もし悟空にあの女性の事を聞かれるような事があればこう答えよう、と。
三蔵は決意していた言葉をそのまま口にした。
その言葉を噛み締めるように耳にして。
悟空が片手で自分の身体を抑えた。
まるで、振るえを止めるかの様に。
「あの夜・・・・、あの人と一緒に居たの・・・・?」
その紫暗が故意に金目には一切視線を合わさずにいる事に、悟空は気付いていた。
それがまた、悟空の気持ちを切ないものにさせている。
「・・・・・・一緒だった」
嘘ではない。
一緒に居たのは事実である。
勿論、二人きりでは無かったが。
「あの人の事、好き・・・・・?」
いつもストレートに自分の気持ちをぶつけてくる悟空らしく単刀直入に聞かれるのに。
しばらく沈黙した後で、落ち着いた口調で三蔵が口にした、言葉。











「―――嫌いだったら普通抱かねぇだろ」










これは―――嘘。
金蝉の元に帰らせる為の、三蔵が悟空に初めて付いた、嘘―――。

みるみる悟空の目に涙が溜まる。
今の言葉は悟空にとって。
三蔵と金蝉のどちらを選ぶべきなのか、という自分の中の問いに対する答えになってしまったから。




―――本当はもっと、側に居たかった。
もっといろんな話をしたかった。
もっと・・・・・貴方を見ていたかった。




それがもう許されない事であると。
悟空は自覚してしまった。




俯き加減でしばらく下を向いていた悟空だったが、決意した様に三蔵の視線に合わせてから呟かれたその声はすっかれり掠れてしまっている。
「俺・・・・・バイト、辞める」
悟空の振るえがひどくなっていくのに三蔵も気付かされるが、だからと言って何の言葉も返してやれない自分に歯がゆさを感じつつ煙草の煙を吐き出した。

「―――金蝉のところへ戻る」

悟空がとうとうその言葉を口にした。
自分の意図した言葉を悟空に言わせておきながら、三蔵の表情が次第に陰りを帯びて来る。
「でも・・・・その前に三蔵にお願いがある」
「―――何だ」
「俺を・・・・抱いて」
意外な事を潤ませた瞳で言われ三蔵が僅かに表情を変えた。
悟空のあまりにも切ない表情に三蔵の方が胸の痛みを覚える。

「・・・・何言ってやがる。んな事出来・・・・」
三蔵が続けようとした言葉はそれ以上続けられる事は無く。
悟空の唇が三蔵の唇を塞ぐ。
拙いけれど、それは三蔵の気持ちを煽るのに十分な行為で。

悟空の唇から解放されたところで、三蔵が金目に告げた。
切な過ぎるその黄金色に囚われてしまっては、もう視線は一秒たりとも外せなかった。
「―――後悔するぞ」
「・・・・しないよ」
悟空の瞳の真剣な輝きに三蔵は軽い身体を抱き上げると、そのまま寝室へ運びベッドの上へと静かに落とした。
茶色の髪に触れながら、悟空が初めて聞くような優しい声音で囁かれてしまっては。
悟空も感極まって、もうどうしたらいいのか分からなくて困惑してしまう。
「止めるなら今だ。ある程度まで進むと俺も制止がきかん」
「―――金蝉の元へ戻る前に思い出が欲しいんだ。その位の我が儘聞いて・・・・」
すでに涙の浮かんでいる瞳に三蔵が口付けを落とす。
次に、首筋に。
「あ・・・」
悟空の口から小さく声が漏れた。
悟空の身体は何もかもが敏感であり。
触れると素直に声が返って来る。
涙を流し続ける悟空を、三蔵は壊れ物を扱う様に触れた。
またその行為も、悟空を余計に切なくさせる要因で―――。

「さ・・・・んぞ・・・・」







―――そうだ。
おまえは俺の名前だけ呼んでりゃいい。
他のやつの名なんざ呼ぶんじゃねぇぞ。










もう少し早く出会えていたなら。
また違った未来があったかもしれない。
悟空に金蝉を切り捨てるだけの覚悟を強制する事など三蔵には出来る筈もなく。
悟空もまた。
自分の気持ちに踏ん切りが付かず金蝉のみならず三蔵の気持ちさえ傷付けようとしている自分が許せずに。

それでも。
今この時だけは。
愛しい人の腕の中で。
我を忘れさせてくれ、と。
悟空はゆっくりと三蔵の背中に腕を伸ばした。

「んん・・・・」
悟空の甘い声を聞きながら行為に溺れていく自分に自嘲気味に笑みを漏らした。

―――おまえをこんなにも欲していたとはな。

悟空の手が金糸の髪に触れる。
愛しそうにその手が金糸を撫でる。
自分を通して金蝉を見ているのか、それとも自分に対してこんなに愛しげな瞳を向けているのか三蔵には定かではなかったが。
もう、そんな事はどうでもいいことの様に思えて来た。

まだ経験の浅い悟空はほんの僅かの刺激にも敏感に反応してみせる。
絶え間なく、悟空の口から喘ぎ声が漏れる。
時折、苦しげに歯を噛み締める。
その表情どれをとっても、三蔵にとっては己を煽らせていく以外の何ものでもなく。

愛していると言葉にするその代わりに。
悟空の全身を愛撫しながら、少しずつ、それを慣らし始める。
愛撫が繰り返される度に湧き上がる、嬌声―――。
悟空の肩が一瞬、震える。

悟空の脚の間に自身の脚を割り込ませ、ゆっくりとそれを滑り込ませる三蔵の行為に。
「―――っつ!」
やはり辛かったようで悟空の顔が苦痛に歪む。
しかしそれもつかの間で。
三蔵が静かに動き始めると悟空の顔が苦渋の表情から快楽の表情へと除々に変貌する。







そのまま二人は長い時間を掛けて。
お互いの温もりを確かめ合っていたという。









まるで離れる事を拒否するかの様に―――。

































「―――悟空。また桜が咲いたぞ」
静かに呟いたその声は、意外にも穏やかだ。
ここは悟空と三蔵が初めて出会った桜並木。
また今年もその美しい桜の花びらが春風に乗り辺りを舞い美しい情景を描き出している。


しかし、今ここに居るのは三蔵だけで。

煙草の煙を吐き出しつつ、桜の花びらが舞う様を見つめる。













『―――三蔵』













悟空に呼ばれた様な気がして振り向くが。
そこには桜の花びらが美しくひらひらと落ちていくだけで。
そこはかと無く寂しさを漂わせて見える桜に、また愛しさを募らせる。

隣りにおまえが居ないだけでこんなに見方が変わるものか、と三蔵が苦笑する。
この会社に居る限り、悟空に囚われていくのかもしれないな、とそう思う。
ここには悟空との思い出が多すぎた。
いつも側に悟空の笑顔があった。
それが当たり前だった頃には、それがどんなに自分にとって大切なものか気付かずにいたのだが・・・・。







『失くして初めて分かる事の方が多いんじゃないですか』







八戒がやはりここの桜を見上げながらそう言っていたのを思い出す。









・・・・・いつになったらあの存在を消し去る事が出来るのか。









そしてまた、紫暗の瞳を伏せてしまう。










桜の花びらがはらはらと舞い、地上をビンク色に染め上げる。
風とともにまた桜の花びらが舞う。
でも、それは一年前と違いとても寂しげで―――。
三蔵は桜並木を後にした。

はらはらと舞う桜だけがその後姿を見送っていた。