「おい!こっちだ、こっち」
悟浄が手を上げて店の入り口に現れた人物に合図する。
店の中を見回していたその人物は漆黒の髪を揺らしながらこちらへやって来た。
悟空がその人物の眼鏡越しに見える碧眼をチラッと見やる。
滅多にお目に掛かる事にないその美しい碧に悟空が感嘆の溜息を漏らした事には、当の本人は気付いていない。
「今夜はお招きに預かりましてどうも。・・・でも本当に僕なんかが来ちゃって良かったんですか?思い切り部外者ですよ」
眼鏡の奥の瞳を細めつつその人物に言われるのに悟浄がブランデーの入ったグラスを揺らしつつ告げた。
「いいのいいの。はい、ここ座って」

今夜は悟空の歓迎会と称した飲み会だ。
入社してから大分日がたってしまったが、悟浄がここしばらく多忙であった為今夜執り行われる事となった。
社内の酒豪たちは何かと理由を付けてはこのバーへ訪れる。
それは三蔵と悟浄も同じ事であるのには変わりがなかった。
















『桜花』  2


















悟浄に促されて先程の人物が悟空の隣にゆっくりとした動作で腰掛ける。
悟空を真ん中にしてカウンターに三人で座る格好になった。
その男はバーテンダーに「いつものやつを」と注文した後、悟空を見てにっこりと微笑んだ。
その微笑は男性である筈なのに美しさすら感じられて、悟空が無意識にその表情に釘付けになったのは無理のない事だろう。
「貴方が孫悟空君ですか。一度お会いしたかったんですよ。・・・・・僕の事、覚えてませんか?」
突然意外な事を尋ねられ、悟空は目の前に施された相変わらずの綺麗な微笑に見惚れながら。
さて、この顔に以前何処かでお目に掛かった事があっただろうか、と思考を巡らせる。
悟空なりに一生懸命に記憶を手繰らせてみてもいまいちピンと来るものがない。
そんな悟空の逡巡に気付いたらしい。
分かりませんか、と小さく呟いてから、その人物は言葉を続けた。
「じゃ、ヒント。僕は医者です。勤務先は隣町にある西中央病院」
―――西中央病院。
その病院名には心当たりがあった。
悟空が二年前に盲腸の手術を受けた病院。
そしてその時の執刀医の顔が一瞬にしてフラッシュバックする。
この人の良い笑顔には確かに見覚えがあった。
「分かった!猪八戒先生だ!白衣着てねぇんだもん、分かんなかった」
悟空が甲高い声を上げるのに彼―――八戒も快心の笑顔で答えを返して来る。
「当たりです。元気そうですね。ずいぶん背が伸びたんじゃないですか」
まるで親戚の子供にあったかの様にその成長ぶりを喜ぶ八戒の笑顔は、二年前の顔とそのまま変わらない、と悟空は思う。
「僕、実は心配してたんです。あなたが元気でいてくれるかどうか」
「・・・・え?」
突然告げられた八戒の言葉の真意が掴めず思わず聞き返す悟空に、後頭部に右手を当てながら。
「いやぁ、実は僕、当時まだ研修医で初めて手術したのが貴方だったんです。だからいまいち自信が持てなくって」
さらりと八戒に言われるのに、悟空は心の中で呟きながら眉根を寄せた。

―――聞いちゃいけない事聞いちゃったみたい・・・。

少々硬い表情を見せた悟空に彼が何を考えたのか感のいい八戒は気付いたようだ。
その心を解すが如くの極上の笑顔を乗せその微笑みを崩さぬままで優しい声音で囁くのだ。
「でも、本当に元気そうで良かったです。今夜は貴方に会えて僕は本当に嬉しいんですよ」
こんな笑顔を見せられて。
こんな言葉を囁かれては。
心が解れない相手など、きっといないだろうと悟空は思う。

煙草の紫煙がゆらゆらと立ち上がり店内の少々暗めな照明に溶けていくのを見届けながら。
二人のやり取りを楽しそうに眺めていた悟浄がグラスを傾けながら悟空に説明し始めた。
「うちの労災指定なんだよ、こいつの病院。今度ある健康診断もそこでやってるしな。ま、何かと八戒には世話になるって事だ」
悟浄が八戒、と親しげに名前で呼ぶのに悟空が素直に思った通りの言葉を紡いだ。ほんの僅か、小首を傾げながら。
「悟浄と先生って、仲いいんだね」
先生は止めて下さい、八戒でいいです、そう断ってから。
好印象以外の感情を他人に与える事などきっとないだろうと思われるであろう優しい声音は、やはり心地よく耳に響いて来た。
「家が近くなんでなんとなくつるむようになっちゃって。あ、三蔵とも悟浄を介して知り合いなんですよ。時々三人でここに来たりもするんです」
今夜初めて出された、その名前。
その名前を聞いただけで悟空の顔がぽっと紅に染まる。
それを感のいい男が見逃す筈はなかった。
「あれ?・・・惚れましたか。三蔵に」
八戒の言葉に敏感に反応した悟浄がグラスを持ち上げ一口酒を流し込んでから口を挟んだ。
「違う、違う。こいつ、婚約者が居んのよ。そいつと三蔵がだぶっちゃってこういう反応示すの。・・・あ、おまえ今写真持ってねぇ?」
持ってんだろ、知ってんだぞ、と悟浄に促されしぶしぶズボンのポケットから悟空は定期入れを取り出した。
それを広げつつ、やはり照れ臭いのかその表情には赤味が差している。
その写真を見て、八戒が思わず唸り声を上げた。
―――それは似ているなどと一言で片付けられるものではなかったから。
「・・・・うーん。これは似てるとか似てないとかの問題じゃないですね。血縁関係とか、無いんですか」
八戒がそう呟いた刹那。
「あるわけねぇだろうが」
背後からよく聞く低い声が聞こえて来て三人がほとんど同時に振り返る。
そこには金糸の髪をかき上げつつ煙草を咥える三蔵の姿があり、いつもの不機嫌に輪を掛けて不機嫌そうだ。。

その表情を見届けつつ、悟浄が、あ?と小さく声を上げた。
ここにこの男が姿を現した事が、少々意外だったから。
「今日は例の大口と商談とかで来れねぇって言ってなかったっけか?」
その言葉に煙草の煙を吐き出しながら答えつつも、その紫暗はまだその写真に向けられたままだ。
「早く終わったらこっちへ来いと言ったのはおまえだろうが」
言われるのに違いねぇな、と呟きながら悟浄がこの男を何処に座らせようかと考えていたその時に。
よく気の付く男は行動が早く、その腰をすっと上げた。
「僕は一応部外者なんで」と一つ席をずらし、空いた悟空の隣の席へ三蔵を腰掛けるように促すあたりは流石八戒といえよう。

いつもの、と三蔵が声を掛けるのにバーテンダーがにこやかに頷く。
ほんの僅か、悟空の心臓が高鳴った。
この写真の主と同じ、その金糸で。
その紫暗で。
その低い声で、囁かれたりしたものなら。
悟空はどうにも勘違いし婚約者の名を呼んでしまいそうになりながら、この胸の高鳴りを抑えるのに実は相当苦労していたのである。
そんな事に他の三人が気付く筈もなく。
悟空を除いてこんな話に花が咲く。
「で、どうよ。契約の方は」
「・・・・決まった。実際に動き出すのは来月からだがな」
「あの気難しい社長を商談三回で落としたってか。さすがは三蔵様、やってくれるねぇ」
まるで他人がこの契約を成立させたような落ち着いた物言いの三蔵に驚かされつつも悟浄は素直に感心しきりの声を上げた。
実際、数ある取引先の中でも五本の指に入ると言われる程一筋縄ではいかない社長だ。
幾ら百戦錬磨の三蔵とはいえかなり苦労させられるのでは、と悟浄は踏んでいた。
予想を大幅に縮めての商談期間に、一体どんな手を使ったのかと聞いてみたくなる程だ。
目の前のグラスをじっと見つめながら、八戒が嫌味に聞こえない様に気を使いながら言葉を綴った。
「貴方も頑張りますね。社長の甥で将来は約束された様なもんなんですから、もっと手を抜いてもいいんじゃないですか」

今目の前に置かれたばかりのグラスを持ち、ゆらゆらと氷が揺れる様を見つめながら、八戒の台詞に返した三蔵の言葉は得てして予想通りと言えようか。
「煩いババァが一人居るんでな。そいつに文句を言わせない為にやっているだけだ」
自らが勤務する会社の社長であり、はたまた叔母でもある人に対してその言い方はないだろう、と八戒が苦笑しつつ。
「そんな呼び方していいんですか。仮にも社長さんでしょう」
言いながらグラスを空ける己の姿をじっと見つめているものがある事に気付かされて八戒が振り返ってみれば、そこにあったものは黄金色の瞳だ。
「・・・・あの」
突然自分達よりも一段低い場所から小さく声が上がり、三蔵と悟浄もほとんど同時にその声の主を見つめた。
「俺もなんか飲んでいいですか」
遠慮がちに悟空が言うのに悟浄が笑う。
「あ、わりぃ、わりぃ。えっと、―――なんにするよ。水割りか?それとも」
「悟浄。悟空君は未成年でしょう。ノンアルコールの方がいいんじゃないですか」
あ、悟空でいいです、と小声で八戒に言ってから。
「俺もお酒飲んでみる。あ、でもあんまり強くないのね」
それを聞いた悟浄が悟空の肩を抱き、笑顔で告げたその声は実に楽しそうだ。
「そうこなくちゃなぁ。俺なんかおまえくらいの時、ビール煽るように飲んでたぞ」
「悟浄と一緒にしないで下さい。―――本当に飲ませて大丈夫なんですか」
「大丈夫だって。酔い潰れたら俺がちゃんと家まで送り届けます」
悟浄が任せなさい、と胸をポンと叩いたその仕草に、八戒は苦笑した。

心配そうに悟空の顔を覗き込む八戒に、悟空は大丈夫、とにっこり微笑えむ。。
本当にいいんだろうか、と三蔵の顔をちらっと見やるが、新しい煙草に火を点けつつも特に表情は変わらない。
それをとりあえず肯定だと受け止めて。
「・・・分かりました。じゃあ、悟空にぴったりのお酒を僕が選んであげましょう」
そう言いつつ八戒が目の前にあるドリンクメニューを手に取りしばらくそれを見つめるその姿に、一体どんな酒が選ばれるのだろうかと興味を持った悟空も後ろからそれを覗き込んだ。
背後から興味深々に送られてくるその視線に微笑ましさを感じつつ、その中から一つを選んで悟空に告げた。
「ああ、これなんかいいですね。ジュースみたいに軽く飲めちゃいますし。アルコール分もビールより低い位ですから少し位なら問題無いんじゃないですか」
八戒が指差しているそこに書かれたカクテル名。

―――ムーンライト・キス。

悟空にしてみればそんなに可愛らしい名前の酒があったのか、とそれは新しい発見だったようで。
「俺、それにする」
間髪入れずに悟空がにこやかに言うのにようやくここで三蔵が口を開き、忠告して来たその声はやはり低くて威厳を伴っている。
「おまえ、まだ未成年だろうが。止めといた方が身の為じゃねぇのか」
「あれ?三蔵様、ずいぶんお優しいじゃないよ。もしかしたら惚れたのは悟空じゃなくて三蔵の方だったりして」
にやっと意味深な笑みで悟浄にからかわれるのに三蔵は煙草を灰皿に押し当て。
その赤目に威嚇するように視線を投げ掛けた。
「くだらねぇ事言ってんじゃねぇ。明日の業務に差し障るとこっちが迷惑するだろうが」
「・・・・・・・・素直じゃねぇの」
心底つまらなそうに、相手に届く事のない程の小声で呟いて。
グラスの酒を一気に煽り、悟浄はバーテンダーに同じ酒を注文する。
大概においてこの悟浄という男は誰が誰を好いているとか、好意を抱いているとか、そういった心理を読むのを事の他得意としている。普段他人の心配などした事のない三蔵がこんな台詞を口にする事自体普通ではないと感じたのだが。憶測を誤ったのだろうか。

しばらくして悟浄の前には先程と同じブランデーが置かれ。
悟空の前には八戒の選んでくれたムーンライト・キスが並んで置かれた。
悟空の前に置かれたそれは白みかがった綺麗な葡萄色で、グラスの淵にそっと添えられた白い小さな花と愛らしいコントラストを描いていた。
名前も酒らしくなければその姿も酒らしくないな、と悟空は思う。
「飲んでみて下さい。きっと悟空好みですから」
八戒に人懐っこい笑顔を見せ言われるのにコクンと頷いて一口カクテルを口にする。

甘い巨峰の味と微かに薫るアルコールの匂い。
酒には不慣れな悟空もこの程度の酒ならおいしく頂けそうだった。
「これ、すっごく美味いよ。お酒飲んでる感じしないし」
悟空が素直に言うのに、良かった、と八戒が満面の笑みを施した。
かなり飲み易いらしく割りに早いピッチでカクテルを喉に流し込んでいく悟空を紫暗がちらりと見やりつつ掛けられた言葉は多少憤慨していたようにも思えた。
「悟空、これ、いい加減しまえ」
言いつつ三蔵が指差した先にあったものに悟空が目を向けると、先程の婚約者の写真がまだ開かれたままでそこに置かれ、こちらに対しその不機嫌な表情を露呈している。
三蔵本人もあまりに良く似ているその写真に少々困惑しできる事なら早く片付けて欲しいと思っている様子で。
「あ・・・ごめんなさい」
悟空が焦り気味にそれをズボンのポケットに仕舞い込むその姿を見届けてから、灰皿に煙草の灰を落としつつ三蔵が悟空に尋ねて来た。

「何で今頃バイトなんか始めたんだ。本来ならその男の為に花嫁修業でもしている頃じゃねぇのか」
男である悟空に対し「花嫁修行」という言い方は似つかわしくないのかも知れないと思いつつも、他にそれを表現する言葉が思いつかなくてそのまま台詞に乗せてみた。
「ん・・・、結婚資金、貯めたくって。金蝉、全部出してくれるって言うんだけど、それじゃ申し訳なくて。それに・・・・」
そこまで言ったところで悟空が言葉を止め、ムーンライト・キスを一口流し込んだ。
喉を潤したところで、ゆっくりとした口調で呟く。
「―――金蝉、今地方勤務してるからあまり会えなくて。働いてる方が気が紛れていいんです」
そう小さく呟いた悟空の様子に、驚かされた。
今まで見た事のない様な影のある表情を見せられたから。
急に無言になった三蔵を不思議に思いちらっとその姿を見るとグラスを片手に煙草を灰皿に押し当て、新しい煙草をソフトケースから取り出しているところだった。
その横顔は人を寄せ付ける事を拒むほどの秀麗さで。
思わず悟空の口から溜息が漏れた。

童顔なその外見から、同い年の友人にさえ子供扱いされる事もしばしばある自分に、こんなふうに大人の雰囲気を醸し出す時期がいつか訪れるのだろうか。
そんな想いを抱えつつ、しばらくの間悟空の視線が三蔵の仕草に注がれていた。
隣でそんな風に見られているのだから当然視線に気付いた三蔵がこちらを振り返るのは当然の事だろう。
「何見てやがる」
低い声で不機嫌そうに言われるのに。
「な、なんでもないです」
慌てて前を向くと一気にムーンライト・キスを飲み干した。
照れ隠しにバーテンダーに「もう一杯下さい」と注文する。
そんな悟空の様子に気を良くしたらしく、八戒が嬉しそうに笑顔を見せて悟空に告げて来る。
「気に入ってくれたみたいですね。飲みやすいでしょう」
悟空が頷いて、にっこりと愛らしい笑顔を返して来た。

シェーカーを器用に振りカクテルを作るバーテンダーの仕草に目を奪われていたその矢先。
背後から声がかかって悟空は後ろを振り返る。
悟浄がいつの間にやら後方のテーブルに居る社員やアルバイト達と飲み始めていて悟空に手招きしているのだ。
言われるままに悟空は席を立ち、三蔵と八戒、どちらに言うでもなく声を掛けた。
「俺、あっちのテーブル、行って来ます。カクテル出来たら呼んで下さい」

八戒が分かりました、と返事をするのに笑顔で返し、きびすを返して悟空が悟浄の側へと駆け出して行った。
悟浄や他のアルバイトとにこやかに会話を交わしている悟空を見ながら八戒が呟いたその声は、優しさに満ちている。
「いい子が来てくれて良かったですね。お客さんの受けもいいんじゃないですか」
「・・・・・どうだかな」
カラカラとグラスの中の氷がぶつかる音を聞きながら、八戒が溜息を付く。
その溜息が店内の静かなBGMに掻き消された後、低い声で囁いた。
「ほんと、惜しいですね」
八戒の言葉の意図が掴めず三蔵が訝しげな顔で八戒を見やる。
そこで一度有線から流れて来るBGMが途切れたが、またすぐに新しい曲が掛かるのを待ってから八戒が言葉を綴った。
「さっき、三蔵と悟空が話しているのを見て思ったんです。・・・自然だなって」
「―――自然?」
「そう。何だか雰囲気がすごく良かった・・・。悟空が婚約していなければ僕、間違い無く今頃策略してますね。二人がくっつく様に」

八戒の碧眼に初めて視線を合わせた紫暗は相変わらずの不機嫌さを表している。
三蔵がゆっくりとした口調で八戒に言い返して来た。
「馬鹿言ってんじゃねぇ。人の婚約者に手ぇ出す程相手に不自由してねぇよ」
この外見に加えて将来を約束された男だ。
女達が放っておくわけが無いのは容易に想像が付く。
「―――でも、決まった人はいないんでしょう」

八戒の問い掛けには答えずに。
三蔵の目の前の空になったグラスを持ち上げ「足しましょうか」とバーテンダーが聞いて来るのにゆっくりと頷く。
それと交互して置かれるムーンライト・キス。
八戒がそれを手に取り悟空を呼ぶ。
「悟空、カクテル、来ましたよ」
言われるのに悟空が茶色の髪を揺らしながらこちらへ向かってやって来た。
薄暗いライトに照らされた悟空の笑顔がやはり年齢より幼く見えるのに、三蔵が目を細める。

その後、会がお開きになるまで約二時間。
悟空が口にした酒はムーンライト・キスをグラスに二杯だけ―――だと三蔵は思っていたのだが。
実際は違っていた様だ。