「きっれー・・・・」
首を後ろに傾けて、天を仰ぐ。
悟空が見つめていたものは今が盛りとこぞって咲き乱れる、桜並木。
風が吹く度に花びらがはらはらと舞い音も無く地面に落ち、地上を淡いピンク色に染める。
また、その様子も悟空を感動させた。

真っ直ぐに続く桜並木の両側には良く育てられた芝生。ところどころにベンチがある。
そのベンチの一つに腰掛けると、桜の花びらが散る中に身をまかせ悟空はゆっくりと目を閉じた。

遠くから聞こえる小鳥の鳴き声。
かすかに漂う春の花々の香り。

「静かだなぁ、ここ」
悟空はしばしの間、首を後ろに傾けたまま目を閉じ春を満喫する。
あたりは丁度いい具合に静寂が保たれているし、春風は頬を掠めて心地よく通り過ぎていくし。
このまま瞳を閉じていたらやがて訪れる睡魔の誘惑に勝てそうもないな、そんな事を感じつつ。
十分に春を堪能したところでゆっくりと目を開くと。
鮮やかな金糸の髪と紫暗の瞳が真上から自分を伺っているのに気付かされて、悟空の黄金色の瞳が瞬時にして細められる。
その男の口元にはまだ火の付いていない煙草が咥えられていた。
「―――あ、主任」
悟空が小さくバツの悪そうな声で囁くのに、目の前の男から返された低音は静寂の中を響き渡った。
「てめぇ、入社一週間目にして初サボりか」
「さぼってるんじゃない・・・・迷ってるんです」
悟空が俯き加減になって恥ずかしそうに言うのに、その男はあらかさまに呆れつつその金目に視線を落として来る。
「今日で何回この敷地内を歩いた。いい加減覚えたらどうだ」
「すいません。ここ、なんかめちゃくちゃ広くて」

入社と言っても悟空は社員で採用された訳ではなく、バイト入社だ。
仕事は正社員のそれと比べれば足元にも及ばない程度のものでしかなかったが、それでもそこそこ責任のある仕事を任される事も多々あり。
悟空の配属された部署の主任であるこの男にに直接指示を仰ぐ事も多い。
正社員ではない悟空にとっては直属の上司というわけではなかったが、日頃から何やかやと用事を言いつけられる、この金糸と紫暗の瞳が印象的なこの男。

―――名を、玄奘三蔵と言う。

今日などは朝一で三蔵の得意先に書類を届ける手はずになっていたので、いつまで待ってもフロアに顔を出さない悟空をここまで探しに来たらしい。
「この方向音痴が」
よく友人達からも言われ続けてきた一言を入社一週間にして言われてしまっては悟空も立つ瀬がない。。

思い起こせば一週間前、三蔵と悟空が初めて出会ったのもここだった。
やはり事務所の場所が見つけられずに困っていた悟空を丁度得意先から戻って来た三蔵が見つけ、事務所まで案内してやったのである。
面接やらなんやらで入社の前にも二、三回は来ているだろうに。
悟空の方向音痴はお墨付きらしい。
「おい。ぼーっとしてねぇで、行くぞ」
三蔵にせかされ悟空が急いでその後を追う為に踵を返した。
連れに歩調を合わせるなどという意識は三蔵には勿論皆無で、悟空はこれ以上迷いたくないという思いから小走りにその場を後にした。

















『桜花』  1


















広い敷地内の中程に建てられた六階立ての横広な白い建物。
入り口から入ってすぐ左にある少し広めのフロアが事務所だ。
中に入った途端、電話のベルやら社員の話声やらで外の静けさがまるで嘘の様な喧騒の中、しばし悟空は圧倒される。
外の環境とはまったく違う、フロアに入った瞬間の違和感―――。
入社一週間が過ぎても、悟空はこの入室した瞬間の違和感には慣れずにいた。

「おい、悟空、遅いぞ」
突然後方から声を掛けられ、悟空が少し先方に目を凝らすと、紅い髪をはらはらと揺らした男が、こっちへ来い、と手招きしているのが見える。
ここのアルバイト全員の管理を一手に引き受け、シフト管理から勤務態度の把握、昇給の決定まで全てを任されているのがこの男、沙悟浄だ。社内ではチーフと呼ばれ、その兄貴分的性格からアルバイトの学生などにも慕われている。

まだ悟空が高校生であった頃からの知り合い。
悟空の所属していたクラブに夏休み初日にOBとして指導にやって来た先輩―――それが悟浄だ。
その時から付き合いが始まり、早いものでかれこれ丸三年の月日が流れた。
悟空にとっても彼が兄貴分の様な存在である事には変わり無く、バイトを探していると相談を持ち掛けた悟空に、じゃあうちに来いよ、と声を掛けたのも悟浄だった。
「遅いぞ、おまえ。九時には来なきゃダメだろうが」
悟浄が優しくも厳しく言うと悟空は素直にごめん、と頭を下げた。
そんな悟空の頭を一度くしゃっと撫で付ける。
悟浄が常日頃から悟空に仕掛けて来る癖のようなものだ。
「三蔵の得意先、行くんだって。ついでにこの書類も頼むわ。三蔵の指定した会社のすぐ近くだから」
パサッと悟浄の手から渡されるその書類を受け取ろうとした悟空の手は軽く払われる。
それを受け取ったのは三蔵だった。
何すんだよ、と悟浄がその真紅の瞳を光らせるが、そんな威嚇はこの辛辣な男に効く筈もなかった。
「手ぇ抜いてんじゃねぇよ。最近おまえ、この会社、あまり顔だしてねぇらしいな。電話でそこの専務に嫌味言われたぞ。おまえが行け」
書類を悟浄に突っ返して三蔵は自分のデスクに向かう。
デスクに着いてすぐ、椅子の背に掛けた背広を手に取り腕を通す。
深緑色の上着が金色の髪を美しく際立たせ、彼の佇まいをより魅力的なものにしていた。

仕方なく突っ返された書類を受け取った後でそれを小脇に挟み、煙草とライターを取り出しゆっくりと火を点ける。
一度深くその苦味のある煙を吸い込んでから。
悟浄がその紫暗に視線を留めつつ尋ねて来た。
「これから例の大口と商談か。契約取れそうか」
「・・・・さぁな。今のところは好感触だが、社長が一癖も二癖もある奴なんでな。最終的な返事をもらうまでは何とも言えん」
そんな二人の会話を聞きつつまだ未成年である悟空は、自分のそれとはは大きく異なるその責任の重さに。
大人はやはり大変だ、とそう確信しつつてきぱきと外出の準備を進める三蔵の表情を見つめていた。そして、軽く溜息を付くのだ。

――やはり似ている、とそう実感させられて。

煙草の煙を吐き出してその行方を目で追いながら悟浄が手を振り三蔵に声を掛けて来る。
「ま、適当に頑張って来いや」
その言葉には答えずに身を翻して行ってしまおうとする三蔵の背中に。
悟空はいつも見慣れている、あの広い背中をたぶらせていた。

―――その容姿も、声も、話し方も信じ難い程に目の前の男と酷似している、
・・・・自分の婚約者である、「金蝉」の背中を。

三蔵がドアに手を掛け近くに居た社員に声を掛けつつ、ゆっくりとそれを開けた。
「一時には戻る。・・・・行って来る」
その社員がいってらっしゃいと言いかけたその刹那。
悟空が金蝉を頭に思い浮かべたまま無意識に言葉を発してしまったのだ。

「いってらっしゃい!仕事、頑張って。早く帰って来てね」

しばし間を置いてから。
頭の中でたった今自分が吐き出してしまった台詞を復唱して。
とんでもない事を口走った事に気付かされた悟空は口を押さえたが時すでに遅く。
三蔵の足が止まり、悟空に目線を合わせた。
当然流れたのは、重い沈黙。

―――早く帰って来てね。
そんなふうに告げられたのは入社以来初めての事だったから。
何と言葉を返すべきなのかも分からぬまま、頭に思い浮かんだのは、こんな言葉。

・・・・・こいつ、なんか変わってねぇか。

「うわっ、俺っ・・・・」
悟空が顔を真っ赤にして俯くのに、悟浄は周りの視線も気にせず大声で笑い出したから周囲の社員も驚いて振り返る。
「そっか、そっか。似てるもんなぁ。今の後ろ姿なんか特にな。思わず勘違いしたか」
悟浄が愉快そうに笑うのに三蔵が不機嫌な表情を見せる。
悟空はといえば悟浄の言葉を肯定すべく真っ赤になって俯いたままだ。
三蔵がまだ笑い続けている悟浄に、
「笑い過ぎだ、てめぇ」
憮然とした態度で威嚇した。
今にも殴り掛かって来そうな程物騒な三蔵の視線をやり過ごし、どうにかこうにか笑いを納めた悟浄が笑った理由を説明し始めた。
「こいつさぁ、婚約者がいんのよ。金蝉って奴なんだけど、そいつがおまえにそっくりでさ。だから今おまえが出て行こうとした時、そいつとオーバーラップしてつい口から出ちゃったんじゃねぇの」
悟空がはい、その通りです、と言わんばかりの顔で悟浄を見上げる。
その表情に悟浄もついからかってやりたい気持ちが抑えきれなくなり、思わず飛び出したのは完全に揶揄の掛かった台詞だった。
「なに、おまえ、金蝉と会った時はいつもそうやって玄関で送り出してるわけぇ?すでに新婚さんって感じ?」
「んなことするかよ!」
図星だったのか照れ隠しなのか、悟空が声高に返して来た。しかしその表情を伺えばすでに耳まで真っ赤に染め上がっている。ここまでの反応を見せるという事はやはり図星だったのか。

・・・・・なるほど。最初に会った時になんだか驚いた様な顔してやがった原因はそれか。

最初に桜の下で出会った時の、あの金目。
驚きのあまり言葉も出ない、そんな心情が見て取れた。

紫暗の瞳が、ちらっと柱時計を盗み見る。
約束の時間まで小一時間。
大口の契約が取れるかどうかの瀬戸際だ。
遅れる訳にはいかない。
「初めのいってらっしゃいはともかく、後の言葉は愛しい奴にだけ聞かせてやるんだな」
そう俯いたままの悟空に声を掛けると、三蔵はドアにもう一度手を掛け開け放った。
「おい、悟浄。今日は二時から俺と同行だ。一分でも遅れたら置いて行くからな」
そのままドアを閉め行ってしまう三蔵の姿を悟空の金目が名残惜しそうにその後を追った事に悟空自身気付いてはいないようだ。

へいへい、ともうここには居ない相手に返事をしてから悟空の背中をポンと押したのは、言うまでもなく悟浄の手だ。
「ほれ、いつまでもぼうっとしてねぇで仕事、仕事。・・・早く行ってこねぇと、お得意さんと三蔵からどやされるぞ」
悟浄に喝を入れられて。
まだ僅かながら頬に赤味を残したままで、仕事へと悟空は気持ちを切り替えた。