『・・・・今居る場所から・・・・・俺を救い出してくれる・・・・?』
そう言った時の、貴方の顔といったら。
貴方がそんな顔を見せるなんて、初めてだね。
俺の言葉にそんなふうに反応してくれるなんて思ってもみなかったから、何だか嬉しくて。
返事を聞くのがどうしても怖くて俺は貴方から逃げてしまったけど。
あのまま待っていたら、何と返して来たのだろう。
こうして仔犬と戯れながら、そんな事を考えた。
―――俺はいつでも貴方の事を考えている。
俺の事も考えて・・・・?
貴方の頭の片隅に、俺を置いて。
俺が貴方を想っている、その十分の一でいい、貴方が俺を想ってくれたら―――救われるような気がするから。
Tragedy
潮風が一瞬強く吹き抜けて細い金糸がその風に流されていく。
視線の先、ここから離れた波打ち際には、どちらが仔犬が分からなくなる程にじゃれ合い笑顔を見せる悟空が居て。
その側に居るのは仔犬の飼い主であろう温かな目をした初老の婦人。
夜の顔しか今まで見届けた事のなかった自分には、今の悟空の笑顔は眩しすぎた。
やはりこいつは日の当たる場所に戻るべきだ、と。
そんな想いを確信しながら煙草を咥え、先端に火を点ける。
手元にある純銀製のライターを見つめ、それを再度しっかりとその手に握り締め車にもたれ掛かっていたその背中を起こし掛け、悟空の元へ歩き出そうとしたその瞬間に―――まるで計ったかの様に車の中に置き忘れた携帯が鳴る。
自分の携帯は常に身に付けているから、それは悟空の携帯。
相手が誰なのかは出なくても見当が付くから、今こんなに心から自由を満喫し楽しんでいる悟空の邪魔はさせたくない、とそう心から願った。
ドアを開けシートに置き去りにされた電話を取り上げて、ボタンを押し耳に当てる。
―――静か過ぎて、怖い程の沈黙。
お互いに、相手の出方を伺っているようなそんな空気に嫌気が差して先に口を開いたのは相手側。
『・・・・・悟空じゃありませんね』
思った通りの人の良さそうな、それでいて、人を食ったような落ち着き払った声。
予想通りの相手に三蔵が僅かに顔を顰めた。
「何の用だ」
その低い声に、相手も誰がこの電話に出たのかが理解出来たようだ。
落ち着き払っているように見えて、実はその声音には十分過ぎる程の苛ただしさが含まれているのは―――お互い様。
『他人の電話に勝手に出て「何の用だ」はないでしょう。貴方に用はありません。悟空、出してもらえます?』
自分の存在を認めたがらないその声に、返事を返す気すら薄れて沈黙を守れば、電話口から深い溜息が聞こえて来る。
『代わる気はない、と言う事ですか。なら、貴方から伝えて下さい。代議士さんから予約が入りました。今から一時間後、いつもの待ち合わせの場所へ行って下さいと』
「いつもそうなのか」
『・・・・はい?』
「いつもそんなふうにあいつを縛り付けているのか」
さらっと告げられたその一言に、電話の相手はさらに苛立ちを募らせる事になる。
『縛り付けてるのは貴方の方でしょう』
この仕事を辞められずに、貴方に抱かれるだけの為に他の男達に抱かれているという事実を何故分かってやれないのかと、そんな想いを込めて呟かれた、一言。
「言っている意味が良く分からんが」
返された言葉は、やはり予想通りで。
―――けれどふっと笑みを漏らして、続けられた一言は予想外だった。
「変態代議士に伝えとけ。―――あいつはもう二度と客は取らない」
低い声で告げられたその一言に、今度は携帯の向こう側が沈黙した。
ピッと音を立てて、電話を切る。
きっと今頃電話の相手は呆然とその場に立ち竦みながら今からどういった行動を起こすべきなのか、頭の中をフル回転させているのだろう、とそう思うと苦笑が漏れた。
顔を上げれば仔犬を抱き上げた婦人に別れを告げて、悟空がこちらにやって来るのが視界に入る。
三蔵の右手に握られた携帯を見届けて。
「あれ?俺、携帯車に置きっ放しだった・・・・?」
にこやかにそう告げられて。
やはりその笑顔だけは失くして欲しくはない、と心の中でそう告げて携帯を悟空に投げた。
蒼く、何処までも蒼い空に、円を描くようにそれは舞う。
しっかりとその携帯を手に受け止めてから、悟空が安堵の溜息とともに呟いた。
「・・・・ばっか。落したら壊れるじゃん」
頬を軽く膨らませるその表情も、こんな明るい太陽の下だからこそ目にする事が出来たものだ。
あまりにも愛らしいその表情に、意識せずとも紫暗が細められる。
今しがたの事務所の責任者からの連絡は無かった事にした。
しかし三蔵のそんな思惑には気付く事なく悟空が携帯のボタンに手を掛ける。
「もしかしたら事務所から連絡入ったかな・・・・・・」
―――言いつつボタンを押そうとした手がその先の行動に移れなかったのは、突然腕を引かれてその胸の中へ押し込まれたから。
「―――さん・・・・ぞ・・・・・?」
驚いてその顔を見上げれば滅多に見受けられないような、優しさを湛えた紫暗に何故か戸惑って。
それでもやはり愛しさは募るからその背中に遠慮がちに手を回しても、拒否される事なく受け止めて貰えた事が嬉しくて仕方がなかった。
悟空の方から唇を強請れば、静かにそれを落とされる。
最初は触れるだけだったのに、除々に深さを増すそれに耐え切れなくなりそうで。
耳元に繰り返し飛び込んでくる波の音を聞きながらその口付けを甘受する。
「・・・・・ん・・・・・」
小さく漏らす声に艶を感じつつ惜しみなく奪った後で、唇を離せば潤んだ目で見上げて来る。
僅かに笑みを浮かべる三蔵に悟空の方まで色気を感じてしまうのだから困ったものだ。
「これだけじゃ足らねぇって顔すんじゃねぇよ」
「三蔵もね」
負けずに言い返して。
「今日は仕事の事は考えるな。―――電源、切っとけ」
静かに愛しいその声て囁かれた一言に悟空はコクン、と頷いた。
車のドアを開けて、悟空がまず最初に助手席へと滑り込み。
それを見届けた三蔵が、次に運転席へと乗り込んでいく。
ギアをローに入れサイドブレーキを落して。
車はゆっくりと走り出した。
「ごめんね、インスタントで」
ソファに腰掛けテーブルの上に置かれた灰皿を引き寄せた後で。
悟空の呟きを受けて、三蔵の視線が悟空の手元に移動した。
漆黒のコーヒーが揺れるそのカップを、覚束ない手付きでテーブルに置くその姿を見届ける。
こいつはこんな些細な動作さえ危なっかしいと心の中で苦笑させられた。
「コーヒーメーカーなんて洒落たもの、持ってないから・・・・・」
照れ臭そうに言う悟空の表情は、実に新鮮。
ベッドの中で見せる顔とは異なるその数々の仕草に、良い意味の意外性を覚えた三蔵の紫暗が僅かに細められた。
「あちこち引っ張りまわしたから、疲れたんじゃないの」
悟空がそんな言葉を口にすれば。
「人を年寄り扱いするな」
三蔵が静かな口調で食って掛かる。
―――たおやかで、優しくて、穏やかで。
自らの周りを漂うこの空気に不思議な感覚を覚えたのは、二人同時。
自分の父親と、まだ制服を着て太陽の下を走り回っていた頃からの、男友達。
この部屋に通した事のある男性は、そんなものだ。
―――初めて、特別な感情を持つ人を自分の家に連れて来たものだからこういう時は何を話したらいいんだろうかと話題を探す。
・・・・・それでもやっぱり分からなくて。
とりあえず間を持たそうと、コーヒーなんかを淹れてみる。
普段コーヒーよりもやはりジュースを飲む事が多いから―――淹れ慣れない。
自分で淹れたそれに対して、一口流し込んで思わず文句が出る。
「・・・・・・苦・・・・・・」
砂糖をスプーンに二杯。
ミルクボーションを二つ。
それだけの量を入れて何とか飲める状態にしてもう一度それを口にしてほっとする。
そんな自分に対して目の前の人は何も入れずにそのコーヒーを飲み干して。
「こんなものは苦いうちに入らねぇよ」
そんな事を言ってのけられては、自分が如何に子供であるかを突き付けられてしまった。
「・・・なんかすっげぇ差付けられた感じ」
「ぁあ?」
「―――どうせ俺は子供です」
頬を膨らませて言うその台詞こそ子供じみているだろうと言ってやろうかと思ったけれど他の言葉を思い付いて小さな笑みを見せる。
ソファから立ち上がりつつ、点けたばかりの煙草を灰皿に押し当てて、悟空の隣に付いたかと思うとふわっとその身体を横抱きにさせられた。
―――何・・・・?
予測もしなかったその行動に言葉には出さず目線で訴える。
「おまえが子供じゃない事を証明してやる。・・・寝室はどっちだ」
甘く囁かれるのに、身体が震える。
愛しい人の首に細い手を回し頬を胸に当てしっかりと体温を受け止めれば、その温もりは予想以上温かだ。
そのあまりの心地良さに、思わず金目をそっと閉じる。
寝室に運ばれる迄の、短い時間に気付いた事と言えば・・・・・・仕事以外で貴方に抱かれるのは、これが初めてだという事。
今、俺が自分の気持ちを正直に告げたら貴方に伝わるだろうか。
―――貴方は、信用してくれるだろうか。
寝室のドアを開けそっと、ベッドに落とされる。
優しい手で大地色の髪を撫でるその手に、確信した。
ゆっくりと唇を離した後は、悟空がその細い腕を広い背中に絡めて抱き付いたまま離れようとはしない。
この匂いに、心も身体もすべてが癒されるようなこの感覚。
ただの煙草の匂いでしかないのにどうしてこんなに落ち着くのだろう。
誰に対しても、誰に抱かれても、こんな感情は沸き起こって来る事はない。
・・・・・・すべてが欲しくて、すべてをこの人と一つにしてしまいたくて、それが叶わなくて何時も切ない思いを抱えて、涙が溢れてしまいそうになるのを必死で堪えた。
泣き顔なんか見せたらもう二度と会えなくなりそうで。
―――だから、絶対に泣いたりなどしなかった。
その手で、全身を愛撫されて。
その優しすぎる愛撫に胸が詰まる。
もう、ダメだ、と悟空は思う。
信用されなくてもいいから告げてみよう、と。
心を込めて告白したら、あるいは本気にしてくれるかも知れない、と。
先の見えない恋愛にこのまま溺れていくよりも後悔する事を覚悟で愛しい人にぶつかっていく事を、悟空は選んだ。
今しかない、と悟空が一度目を伏せて、ゆっくりとそれを開ける。
一呼吸置いてから、潤んだ瞳を切なげに揺らしてその言葉をやっとの思いで口にする。
「―――貴方を愛してる」
紫暗が細められてその金目と向き合った。
つい先程までの無邪気な笑顔からは想像すら付かないような、真摯な表情だ。
―――けれど。
軽く溜息を付いた彼の口から飛び出したのはこんな言葉だった。
「今は仕事の延長じゃない。必要の無いサービスはするな」
「俺、いつも本気で言ってたよ。貴方が本気にしなかっただけ」
その強い意志を込めた言葉とその黄金色の瞳に囚われて、視線が外せなくなる。
一瞬の沈黙の後。
真っ直ぐにその金目に視線を落としたままで、囁かれた低い声。
「俺が・・・・・・」
一言一句聞き逃さないように耳を澄ませる。
待ち焦がれた返事を良い返事にしろ悪い返事にしろ、すべて受け止めたいから。
悟空も視線を外すことなく次の言葉を待っていた。
しかし先に外されたのはやはり紫暗だ。
悟空の側からすっとその温もりごと身体を離し、ベッドの端に腰を下ろし、ゆったりとした動作で煙草を咥え火を灯した。
―――やはり受け入れてもらう事は不可能なのだろうか。
そんな不安を胸によぎらせながらも突然に離された温もりを名凝り惜しそうに求めて、悟空が上半身を起こしてその腕に触れようとした―――刹那。
「保安一課の捜査員と知っても、そう言えるか」
「・・・・・・え?」
何を言われたのか理解が出来ない。
予想された言葉のどれでもない、思いもしなかった告白に悟空の小さな身体が揺れる。
―――保安一課。
猥褻物、拳銃、―――そして、売春。
主に風俗関係の取り締まりを担当する部署。
言わば悟空達とは敵対関係にあるその部署の捜査員だと、その愛しい口が告げて来る。
回らない頭で、懸命に思考を巡らせて、悟空の頭に浮かんだのはこんな専門用語。
―――内偵捜査―――。
事務所の所在場所は何処か。
雇われている人間はどの位居るのか。
最高責任者は誰なのか。
捜査員が客に成りすまし、一種のおとり捜査を行いその辺りを徹底調査する事を指して言う、名称。
つまりは三蔵自身、あくまで仕事の為にこの世界に脚を踏み入れただけの事で。
言われて考えてみれば、辻褄が合う。
何時からこの仕事を始めたのか。
責任者は、どんな男なのか。
客層はどんな人間が多いのか。
―――質問を受ける事が多かった。
貴方を好きになってその熱にうなされて冷静な判断力を欠いていたと言われても、否定出来そうにない。
今まで感じた優しさがすべて偽りであったなんて思いたくないから。
これ以上は何も聞きたくなくて。
悟空の強張った表情を見届けて間もなく、三蔵が部屋のドアを無言で開けた。
静かに閉められたそのドアの音さえ耳に入らなかった。
愛しい人が部屋を後にした事を悟空が気付いたのは―――三蔵が出て行った後に残された煙草の残り香さえ、すべて消えてしまった後の事だった。
一言コメント
ついに明かされた三蔵の職業!
すみません、普通で(汗)。
色々な方に聞かれる度に言いたくて
うずうずしてましたわ・・・・。
ああ、すっきりした。
『今居る場所〜』の悟空の台詞に対して
今回は三蔵返事してませんね。
――さてこの先、どうしましょ。